人間、眠らなくても生きていけるのだ。
 ロイはまずそう思おうとした。食料を摂取すれば栄養はあるはずだし、理論上、エネルギーがあれば物は動くはずなのである。細かいことは考えまい。だいたい、好きなことをしているのだから、ストレスもかからない。
 はずだ。
「ロイ」
 楽しげに腕を絡めてくる彼女と、市場を巡るのは楽しい。ロイに持ち合わせがないのを知っていて、強請ってくることはない。逆に目に付いた果実をすすめられるくらいだ。
「あれ、あっち。美味しそうよ」
「本当だ」
 にこやかにロイは頷く。眩暈がしそうに眠かったが、彼女の言葉を聞き逃すことなどあり得ない。意識を失ったとしても、頷きつづけようとロイは思った。
(それにしても)
 ふと恐れを感じたのは、足の感覚がないことだ。ちゃんと歩けているのだろうか。みっともない歩き方をして、彼女に恥をかかせたりなどは。ましてや、心配をかけてはいけない。
 ロイは足の指先を感覚で探そうとした。見つからない。
「甘いの好き?」
 一体どこに行ってしまったのだろう。まあ、なくても歩けるのならいいのだが。
「好きだよ。……でもあんまりなのは苦手かも」
「あぁ、小さくても男の子なのね」
 ぼんやりしていても話の内容は理解している。ロイは不思議に首を傾げた。
「そういうもの?」
「そういうものよ」
 くすくすと笑った彼女は、熟れた果実をロイに差し出した。ありがとう、と受けとって齧る。甘いのか酸っぱいのか、はたまた辛いのか判別がつかなかった。だが、印象的には甘い。
 女性から貰ったものは、とにかく甘い。味覚は感じられなくてもそれは確かである。
「……甘い」
「冬でも熟してるのねえ。秋果実かしら」
「南から来たんじゃないかな……?」
「そう」
 彼女はふんわりと目を丸くした。
「ずいぶん遠くから来たのね」
 それをとても愛しく思い、ロイは目を細めて笑う。眠気は頭の端にぎゅーっと追い詰められた。女性と一緒にいることは、本当に幸福そのものだと思う。
「あ、ロイ」
「え?」
「ついてる」
 頬に口付けられて、今度は別の意味で気を失いそうになった。なんだかんだで、まだ子供である。刺激の強さにおろおろしていると、彼女がまた楽しそうに笑った。
「早く大人になりなさい」
 そこまで言われると、ちょっと背伸びする気にもなる。ロイはしがみつくように彼女を引き寄せ、頬に唇をちょん、と触れさせた。脳はその柔らかさで一杯になった。



「それじゃ、またね」
 名残惜しそうな彼女と別れ、屋敷に入る。彼女の姿が目に入らなくなると、どっと疲れが襲った。思わず廊下に手をつく。
「……」
 眠い。
 しかし部屋に戻って本を開かなければならない。それはそれで楽しい想像で、ロイはなんとか力を取り戻した。朝に少しくらいは眠れるだろう。足の感覚も戻ってくるに違いない。
 そうすれば、明日は馬で遠乗りである。これはまた楽しそうだ。
(まあ、そのうち)
 慣れるだろうと自分に言い聞かせる。やはり人間、休息が必要なわけだが、それを圧縮することは可能なはずである。間違いない。
「ロイ!」
 ずるずる廊下を進んでいると、後ろから声をかけられた。もうほとんど無意識に背を伸ばし、にこ、と元気に笑い返す。
「珍しいね、こんな時間に」
「サナが子供を産みそうなの」
「え」
 本当、と問いかえす前に手を引かれた。倒れそうになったが足を踏み出す。子馬が生まれることに興味もあれば、彼女が生き生きしているのがまた、見ていて楽しい。行かないはずがないではないか。
「もう、そんな?」
「ううん、予定日より早いよ。手が足りないんだ。だから明日の遠乗りは」
「いいよ、もちろん!」
 ずるずる引っ張られながら、ロイは満面で頷いた。
「子馬と遊ぶのだってきっと楽しいし、それに、君といれば楽しいし」
 転ぶように馬屋に向かいながら、彼女が振り向いた。驚いたような視線が緩む。ロイの大好きな、力強くて優しい目だ。
「……ませガキね」
 そう言いながら頬は赤い。かわいいなあ、とロイは思った。彼女のためならなんでもしてあげたい。勉強はこれが終わったあとでもいいだろう。たかだか少しくらいの睡眠なら、犠牲にしても構わない。



「ああ、ロイはもう帰って寝ていいよ! また明日!」
 落ちついてきた彼女の仕事場を、追い出されたのは夜も開けようという頃だった。明日というか今日の約束だろうと思いながら、笑顔でロイは屋敷に戻る。バイタリティのある彼女のことなので、約束はなし、ということはないだろう。
 ふらふら部屋に戻ろうとしていると、丁度帰宅したらしい、留守がちな男とかちあった。
「おや」
「あ」
 ぼんやりしていたロイは、なんのことかしばらくわからない。それから思い出して、実にふやけた笑顔をつくった。女性でもないので、気合が入らない。
「おかえりなさい」
「あぁ、ただいま」
 男は顎に手をあてて、ロイの様子を眺めている。これはまずい態度をとってしまっているだろうか。ぼんやりとそう思い、実にゆっくりとロイは自分の姿を確認した。
 土だらけだ。
「……ごめんなさい」
 何を言われる前にふらりと後ろを向く。屋敷を泥で汚すのは、それはいただけないに違いない。見れば歩いてきた道ができている。掃除の女性を煩わせる気もなく、こっそり拭いておこうと思った。
「待ちなさい」
 おっとりした、けれどロイを従わせる声だ。そろそろと振り向いた。
「何か?」
 さすがに気をつかえない、ぶしつけな声になってしまっている。男は特にそれには何も思わないようだった。じっくりとロイの顔色を見てから、ふむ、と頷く。
「まあいい。とりあえず今日は寝なさい。ここはいいから」
「……けど」
 汚してしまったのは自分だ。そう言おうとしたが、言葉がうまくまとまらなかった。唇も動かない。ふらふらする。
「私が掃除しておこう」
 まさか手ずから、とはロイは思わなかった。ほとんど女性のためにしか起きない脳になってしまっている。男の手を煩わせるのも、女性よりましか、とすぐに納得した。
 それならありがたいことである。
「はい」
 こっくりと頷き、ロイはてくてく部屋に戻った。背中に「寝るんだよ」と念を押した声がかかったが、あまり聞こえていない。
 扉を閉めてしまうと、しばらくぼうっとした後、ロイは本棚から資料を引っ張り出した。活字を目にすると頭が冴える。さきほどあったことなど忘れて、すぐに没頭し始めた。


 ところてんみたいな脳味噌をなんとか稼動させ、ロイは子馬遊びの約束をこなした。興味がまったくないわけでもないので、それを奮い起こして笑う。そして彼女は今日もかわいかった。
 満足して手を振り別れると、ふらふらふらふら屋敷に戻る。足どころか、そろそろ下半身の感覚がなかった。こうやって消えて行くのだろうか、と思ってすぐやめた。無駄なことに頭を使っていられない。
 今日こそはちょっと寝られるだろう。さすがにほっとして廊下を歩く。
 と、呼びとめられた。
「ロイ」
 女性の声だ。嫌な顔などできるはずもなく、ロイはにこやかに振り返る。すると、いつも優美な表情が強張っていた。
「え」
「昨日、私と約束のあとに」
「え、ええっと」
 怒っている。これは怒っている。悪い事をした覚えはなく、つまりは誤解なのだ。なにがどうなったのか、ロイは必死に考えた。脳のところどころはシャッターが下りている。活用可能地区は少ない。
「あの人と逢ったって本当?」
「……」
 こくんと頷いた。それは本当だ。すると眉間をきゅっと寄せて、彼女が憎憎しいような顔をした。
「ずるいわ、そんなの。結局、あの人がいいのね?」
 唖然と見たが、これはいけない。彼女は怒っているようで、泣き出しそうな顔をしている。女性を泣かせてはいけない。それに、頷けることでもない。
「違うよ、たまたま昨日は」
「たまたま逢ったからって、一緒に朝まで過ごすの?」
 なんだかとんでもない間違いがあったような気がしたが、それは頭にひっかからなかった。さすがにまともな思考を保っていない。何日寝ていないのか、考えるとひっくり返りそうな状況なのだ。
「もちろんだよ、君とでも。だってせっかく逢ったのに、すぐ別れるなんて、もったいない」
 最後の単語は、女性相手にはいささか即物的に思えるものだったかもしれない。しかし、ロイは子供だし、実際のところ肉体関係はない。なくてこれなので、そこも問題だろう。
「なら」
 彼女は挑むように言った。
「今日はわたしと過ごしてくださるのね?」
 ロイはにこりと頷いた。とにかく絶対に、何があっても、ロイにそれを断れるはずがない。理由があるとしたら、そんな回路は存在していないということだ。
「もちろん。いられるなら、いつまででも」
 疲労が背中にのしかかったが、そんなもの、気にしていられなかった。



 自分が寝ているのか起きているのか、いまいち区別がつかない。
 とりあえず起きているのだろう、とロイはぼんやり天井を見た。ここはどこだろう。
(ああ)
 目の前に忙しそうな男がいる。机の上の書類が片付けられていくさまを、ただロイは見ていた。彼も忙しいらしい。それでも乗りきっている。つまりは、自分にそれができないわけがない、という結論だ。
(そうだった)
 頭を振る。研究中に呼び出されたのだ。さきほどまで読んでいた本の残像が、視界の右上あたりにあった。
「あの」
 なんでしょうか、と言う前に、男が口を開く。
「こっちに来なさい」
「……はあ」
 なんだかわからないが、従った方がよさそうだ。ぼよぼよした足取りで、ロイは男に近づいた。どこまで来れば良いのだろう。
 残り一歩を残したところで、上目に見た。
「こっちだよ」
 椅子を引き、男がひざをたたくさまを見ている。考えるのが面倒で、ロイはそのままずんずか近づいた。ぽふ、と膝の上に腰を下ろす。
 すると後ろから手がまわってきた。抱きしめられているのだと気付いて、次には意識を失いそうになった。ぽんぽんと腹を叩く手も、寝ろ、と言っているような気がする。
 しかし寝られるはずがない。ロイは首を振った。研究もあるし、あとで約束もある。
「あの」
「私は君を使い捨てにする気はないんだがね」
「……はあ」
 頭が回らない。とにかく、用事がないなら早いところ解放して欲しかった。欠伸が出るし、身体がぐったりと重い。
「あまり優しくする気もなかったんだがねえ」
「……はあ」
 ふ、と瞼が落ちかかった。背中からぬくもりが伝わってくるのがいけない。
「子供には最初が重要だ、というんだ。だから無駄に威厳を出してみたが、どうもいけないな」
「…………ふわぁ」
 返事が欠伸になり、ずるずる落ちそうな身体を腕が支えた。
「まったく君はおもしろい」
「……ん、」
 眠りかけた目を、ロイはぱちんと開く。眠るわけにはいかない。
「仕方ない。ちょっとだけ、助けてあげよう」
「んん……?」
「君はもう少し、うまいやり方を考えるべきだね」
「……」
 意味がわからない。なんとか瞼を落とすことだけは避けて、耳を通過する言葉を聞いていた。
「良い子だ」
 ふっと顎を指先がたどった。ぼやけた視界が動いて、唇に何かが触れる。さらりと触れた熱に、何かを奪われたような気がする。ロイは男を見上げていた瞼が震えるのを感じた。
「これで等価交換といこう。……ロイ、お休み」
 眠るまいとする意識を奪われたのだ。そうだとロイはぼんやり思う。それでは仕方がない。落ちていく瞼に危機感をおぼえたが、ぽんぽんと叩く手に宥められた。
 瞼が、落ちる。



 やわらかなベッドの上で目を覚ますと、左右に恋人達が座っていた。しゅんとしている。ロイはその瞬間に「しまった」と思い、慌てて起き上がろうとした。
 それを、伸びてきた手に止められる。
「寝てていいんだよ」
「……あの、ごめんなさい」
「謝るのはわたしの方よ、ロイ」
「ごめんね」
 口々に謝られて、ロイは状況がわからない。左右をおろおろと見てから首を傾げた。
「わかる?」
「あんた、倒れたんだって」
「旦那様が」
「無理しすぎたんだよ」
「…………え」
 ロイは急いで記憶を巻き戻そうとした。ぎりぎり音をたてそうな脳だった。なんとか頭を押さえ、眠る前のことを思い出す。
(ええっと)
 倒れてはいない。それは間違いなのだ。心配はいらないと言おうとしたが、二人の言葉の方が早かった。
「ごめん、ロイ」
「でも、嬉しいわ」
 うるうるした瞳で言った。
「そんな無理するくらい、好きでいてくれるのね」
 本当に、ともう一人が頷く。わけのわからない流れにロイは呆然として、男の言葉を思い出していた。
(う、うまいやり方って)
 確かに場は収まりそうだった。心配はされているが、なんか喜ばれている。これが男の策略であることは違いない。
(……なるほど)
 ロイは学習した。誠心誠意真っ直ぐだけが、女性の幸せのためではないらしい。時には嘘も必要ということだ。ロイも死なずにすむし。
 それにしても、ロイは初めて実感を持って思った。
(女の人って、わかんない……)
 そして同時に、わけのわからないものに対する、本能的な欲求を感じた。彼女達は神秘的できれいだ。単純な判断でわりきれるものではない。
 貴重な存在に、ロイは胸の痛むほどの愛しさを感じた。なにしろそこに辿りつくところが、とにかくロイ・マスタングである。
「そんな無理なんてしてないよ」
 きらきらと笑顔を浮かべて、ロイは言った。
「君達といられるのは、本当に楽しくて。つい、時間とか体調とか忘れるんだ」
「ロイ……!」
 はぎゅーっと両側から抱きしめられた。
「おや」
 と、実に盛り上がりまくった部屋の扉が開く。
 三対の目がそちらを見る。どれも同じ意味だった。なんでこんな時に邪魔が入るのだろう、ということだ。しかし言えない。
 相手はこの屋敷の主人だったのだ。
「君達、あまり長居するんじゃないよ。相手は病人だ」
「あ」
「はい」
 堅い顔をした彼女達は、しずしずと部屋を出ていった。それを寂しそうにロイが見送る。扉がきちんとしまってから、ロイは男を見上げた。
「……アリガトウゴザイマス」
 少し照れくさい。こんな手助けをしてくれるとは思わなかった。
「何、礼には及ばんよ」
 男は鷹揚に笑って、ベッドの横に腰掛けた。そのままりんごをむきそうな、そのくらいに緩んだ雰囲気だった。どうもおかしな感じがして、ロイは居心地が悪い。
「まあ、もうひとつばかり礼を貰っても、私は構わないんだがね?」
 ちょいっと片目をつぶられて。ロイはしばらく反応できなかった。けれど数秒の後に思い出す。疲れきっていても、否、疲れてきっていたからこそ、妙に記憶は鮮明だった。
「こ、」
 しかし言葉は止まった。相手は恩人であるし、なんか怖い相手である。ストップしたロイに、男はまた笑いかけた。
「もちろん、私はエロオヤジだよ」
 ロイはもうどうしようもなくなって、そのままぱったり後ろに倒れた。自分がとんでもない間違いを冒したことに、ようやく気付いたのである。たとえ怖くなくても。
 この相手に借りをつくってはいけない。とてつもなく、そんな気がした。