「ところでマスタング君」
 昼食の席。穏やかに告げられた言葉に、ロイは背中をひきつらせた。
「今日はなかなか賑やかだったそうだね?」
 思い当たることがないでもない。というか、ありすぎた。いつまでも隠しておけるわけがない。屋敷での刃傷沙汰、備品の破壊、カーテンを破ったことは数え切れない。幸い、好意的なメイドに助けられているのだが。
 もっともどれも、ロイ自身がやったことではない。
「庭師に馬番。どちらも体力仕事だから、揉めれば問題だろう」
「……すみません」
 ひとまず謝る。やったのはロイではない。しかし、やらせたのはロイだと言われれば反論はできない。
 そんなつもりはなかったのだが、血の気の多い女性はロイの認識外だったといえる。唯一の肉親は可憐な母親だったのだから仕方がない。こうまで過激な事態が起こるとは、考えてもいなかった。
「元々、反りがあわないとは聞いていたが」
「……どっちも気が強いから。それだけなんです。あー、なんというか……本気で嫌いなんじゃないと思います」
「それは問題じゃない。わかるね?」
 はい、と頷き、ロイは素直に反省する。ただどちらにも優しくしただけで、こうなるとは思わなかった。勉強不足だ、と思ったのである。
(不安にさせたら、いけないよな)
 今度から気をつけよう、とロイは思う。冷たくするという選択肢はない。女性にそんなことはできない。
「どちらかにしたまえ」
 え、とロイは顔をあげた。
「騒がしくされるのは困る。どちらかは暇を」
「待ってください!」
 慌ててロイは立ちあがった。がつ、と後ろに椅子が倒れた。それに軽く眉をあげてから、男はロイに座るように示した。
「わ、」
 ごめんなさい、とまた呟きながら椅子を戻し、着席する。きちんとした姿勢をつくって口を開いた。
「ちゃんとわかってもらう予定なので、しばらくお待ち頂けましたらと思います」
 子供の声でさらさらと告げた言葉に、男は目を細めた。生意気だ、というようにも、おかしく思っているようにも見える表情だ。ロイは心臓が跳ねあがるのを感じる。
 恩があるというよりは、ただ、男に恐怖を感じるのだ。滅多に感情を露にしない男だったが、そうでなくてもロイの心臓くらいは握りつぶしていく。
「待ったところでどうなるとも思えないがねえ」
 軽く捨てたような台詞に息を止める。けれど今日ばかりは譲れなかった。二人のかわいい女性を、どちらも路頭に迷わせるわけにはいかない。悲しむ顔は見たくないし、会えなくなるのも問題だった。
 来月から、士官学校の寄宿舎に入ることは決まっている。だからこそ、それまでくらいは近くにいたい。
「どうにかなります」
 息を落ちつけ、ロイは言いきった。子供の勢いで言うのでもない、芯からそうだという言葉を使う。表情は張り詰めすぎず緩めすぎない。真っ直ぐに男を見た。
「どうにか、ねえ?」
 しかし向けられたのは、子供への視線だ。信じていない。ロイは唇を引き締めた。できるものはできる。
「しかし、ロイ・マスタング君」
 静かに名を呼ばれるだけで、やはり息苦しくなる。その時点で負けてしまっているのだ、とロイは知っている。けれど譲れないことはある。この男に逆らうのは、間違っても得策ではなかったが。
「錬金術の勉強はどうなってる」
「……進んでいます」
 嘘ではない。この屋敷の宿代になるくらいの結論は、必ず出していくつもりだった。そうでなければ意味もない。役に立たない男として、見捨てられるつもりはなかった。
 そのくらいの自信はある。けれど何しろロイには経験が足りない。夜を徹して研究しても、時間がかかるものはかかる。
「自分が言ったことだな」
「はい。必ず成果を」
「おろそかにしてはいけないよ」
 わかっています、と頷く。考えるだけでめまぐるしいスケジュールになったが、それでも、ロイはどれも捨てる気はなかった。
 それを子供の我侭ととったか、男はつまらなそうに視線を逸らした。ひとくちだけのワインを口に運ぶ。給仕がはらはらして見守っていた。口添えをしようか、というサインにロイは首を振る。
 まったくこの屋敷には良い人ばかりだ。それがわかっているだけに、巻き添えにしたくない。
「どれも僕の問題です」
「そうだね、マスタング君」
 男が笑った。低い響きが伝わっていく。びりびりと痺れていた。ぎゅうと身体に力をこめていても、追いやられそうになる。
 一体何が怖いのか。ロイは、ただのこけおどしだと思おうとした。けれど無理だ。本能的に理解してしまっている。
 これは、怖い。
 けれど今は逆らわないわけにもいかない。
「それがどういう結論を出そうと、自業自得だ。君のやったことなのだから」
 とんでもなく追い詰められた自分を知った。視線を向けられただけで、たまらない。今すぐ跪いて許しを請いたいくらいの。
 けれど、踏みとどまった。
「責任は取ります」
 息を整えて強く言う。男はすぐにロイから視線を外し、席を立った。今日もまた忙しいのだろう。呆然とロイは背を見送っていた。
 とりあえず生きているようだ。
「ロイちゃん」
 片付けの婦人が入れ替わりに現われ、座ったままのロイに近づいた。
「どうしたのかい? 気分でも」
 本気で心配されている。申し訳なくなり、顔を赤くして答えた。
「ちょっと、腰が……」



 旦那様は優しい御方。
 だというのが、この屋敷のメイドの評判だ。とんでもない、とロイは思う。確かに態度はそうかもしれないが、中味は到底そんなものではない。まったく情け容赦がないと思うのだ。毎度、寿命が縮まっている。
(気のせいか……?)
 恩があるので、恐ろしく思っているだけかもしれない。きっとそうなのだろう。けれどやはり、ロイはそう思いきることができない。
(そりゃ、情けないとこもあるな。でも笑うに笑えない)
 息を吐く。まだふらつく腰に力をこめて廊下を歩いた。
(けど)
 苦笑して足を緩めた。
(まあ、あんなでもないと、下につくのは嫌だな)
 馬鹿の下にいる者は不幸だ。どう優秀でも、それだけで才能にふたをされているに等しい。そんなのはご免だ。勉強を重ねるにつれ、ロイは自分がよほど稀有な力を持っていることに気づいてきた。
 何しろ母親のかわりに得られたもので、無駄にしたくはなかった。今はそれだけがロイの全てだ。才能を惜しみなく使うこと。早く相応しい場所にまで、辿りつかなければならない。
 とにかく過大評価だろうと逆だろうと、相応しくなければ不幸だ。馬鹿の下の天才は不幸だが、天才の上の馬鹿も不幸に違いない。
(さて、どこまでいくかな)
 楽しみになっている。もしかするとあの男を超えることさえ、ロイは考え始めていた。表に出すような間抜けなことはしなかったし、今はかなうとは思っていなかったが。
(……そのためには)
 ふ、と息を吐く。研究の成果は逃せない。けれど女性を捨てるなどは、考えるだけで耐えられない。今のままの状況であっても。
(リズもロリィもかわいいのに)
 どうして仲良くしてくれないんだろうなあ、とロイは心を痛めた。
「ロイ!」
 と、目の前に思っていた相手が現われる。ロイは何よりも先に、にこりと笑った。彼女の元気な姿を見るのは、いつも幸せなことである。
 いつのまにか庭の近くにまできていたらしい。ロイの姿を見つけた彼女が、飛んできてくれたのだ。
「リズ」
「旦那様から聞いたよ」
「ああ」
 肩を落とす。そんな酷いことは、できれば聞かせたくなかった。それもこれも自分の不徳のせいなのだ。
 彼女はロイが落ちこんだのだと思ったようだった。
「心配しなくていいんだよ。私は出ていかないから!」
「本当?」
 まったく演技はなく、ロイは嬉しくなった。するとたまらず愛しいというように、彼女がロイの頭をわしゃりと撫でる。力に任せた乱暴なやり方だったが、もちろんロイは痛いとは言わなかった。
「あぁ、悔しい、あの女。ロイにそんな顔をさせるなんてさ」
 頭を抱きこまれながら、それでもロイは顔をあげた。
「そんなこと言っちゃダメだよ。ロリィは」
「あいつは陰険だからね。報復を怖がってるの?」
 大丈夫、ロイには手を出させないよ!とまたぎゅうぎゅうされる。こんなところをもう一人の彼女に見られたら、とはロイは考えなかった。ロイにしてみればどちらも好きで、どちらもおろそかにしない。ただ、それだけなのだった。
 どうして説得したものか。彼女を傷つけることを脅えつつ、ロイは口を出す。
「そうじゃないんだ。僕はどっちも大事で」
「ロイは騙されてるんだよ。あんたは子供だからね。今度の約束は断るんだよ、あたしもついてってあげるから」
「いや、そうじゃなくて」
「……また、何をしてるの」
「ロリィ」
 割って入った声の主に、ロイはにこりと笑いかけた。二人同時に会えるなんて、心から幸せである。それ以上の他意はない。開き直りでも自棄でもない。まったくない。
 それに目を細めて笑顔を返し、後からきた彼女が言う。
「乱暴な人ね。そんなことをして、ロイを怖がらせるなんて」
「それはあんただろう! あたしのハサミ、隠したのもあんたじゃないの?」
「いやだ、今度は濡れ衣。でも、その犯人には同情するわね。乱暴者に正面から向かうなんて、まったく馬鹿なことだもの」
「何よ、正面からきなさいよ。裏でこそこそ、気持ちの悪い!」
「え……えっと、二人とも」
 まだ身長の低いロイは、二人に縋りつくようにして止めようとした。すると二対の瞳が、ばしっとロイに戻される。
「ねえ、ロイ」
「この女に言ってやってよ」
「お情けで付き合って差し上げてるんでしょう?」
「遠慮すること、ないんだよ」
 問い詰められて、ロイはこくんと喉を鳴らした。屋敷の主人を相手にするより、ある意味怖かった。しかし逃げるわけにはいかない。
「僕は、どっちも好きなんだ」
 声変わり前なりに声を整え、真剣に言った。
「リズもロリィも大好きだよ。……ダメ?」
 上目に問いかけると、何故か二人がよろめいた。顔を赤くしてから、思いなおしたように再びロイに身を乗り出す。
 やっぱり元々気があうのだ、とロイは思った。仲良くできるはずである。
「一番は一人だけなんだよ、ロイ」
 呆れた顔をして言われる。子供だから、という妥協が垣間見えた。
「……どうして?」
「だって、」
「考えてみて頂戴。両方が崖にぶら下がってたら」
「ありがちだね、それ」
「あなたは黙ってなさい。……ロイ、どちらを助けるの?」
 ロイは考えてみた。しかし、どちらという答えは見つけられなかった。何しろ設定が少なすぎる。
「えっと、どっちが近い?」
「……そういうことじゃないよ」
「じゃ、どっちが辛そう?」
「そういうことじゃないのよ」
 二人は頭を押さえた。
「わかったわ。どっちも同じ距離、どっちも同じくらい辛そうよ」
「先に見つけた方から、かな?」
 答えてから、あ、とロイは思いついた。
「両方助けられるよ。錬金術が使えるから」
 正しい結論に喜んで答えると、二人はまた困った顔をした。するとロイも困る。そんな顔はさせたくない。
 そもそも、言いたいことはわかる。ロイも馬鹿ではないので。けれど、答えられないものは仕方がない。どちらも助けるつもりだし、どちらも選ぶ気はなかった。どちらも同じくらい大事で、もちろんそれは区別した大事だった。
「でも、どっちも大事にするなんて無理じゃない」
「そうよ。一人を精一杯愛するものよ」
「この女と一緒なんて腹が立つし」
「愛情も半分なんて、たえられないわ」
 絶望的に首を振る。ロイもたえられない、と思った。悲しませたくない。けれど、どちらかに選ぶしかないのだろうか?
 どちらも愛してみる自信ならある。けれど、信じてもらえないのではどうにもならなかった。
「わかったわ、ロイ」
 暗い気分になっているロイに、彼女が優しく言った。
「良いこと。平等に愛するなんて、無理なの。でもロイにはわからないわね、子供だもの」
 子供じゃない、と思ったが言わなかった。子供らしい部分を愛されているとも知っている。彼女が好きだというなら、それでいいやと思うロイである。
「明日も約束しましょう、明後日も。普通の恋人がするくらいにね。そしたらわかるわ。どちらかはおろそかになるものよ」
 なるほどね、ともう一人の彼女が頷いた。
「わかった。愛されてないと思ったほうが身を引くんだね」
「そう。それなら諦めもつくわ」
 意見が一致したらしい。彼女達を見ながら、ロイは困りきっていた。本当にどちらも大事なのだ。おろそかにしたのだったら、それはそれでロイは自分が嫌いになる。二人とも失いたくない。我侭だとしても、これは本当の気持ちだ。
 しかし彼女達がそうしたい、というなら止められない。試して、それで、おろそかにならないとわかればいいのだろう。ロイはそう結論し、頷いた。
「わかった。それじゃ、いつにしよう?」
 どんな時でもデートの約束は楽しい。けれど、できあがる予定に眩暈がした。ほとんど一日中を拘束されている。一体、いつ寝ればいいのだろう?
(……あ)
 しかも研究もしなければならない。自分が言ったのだ。投げたりはできない。
(自業自得)
 男の言葉を、今更のように苦く噛み締めるロイだった。