ふらりとロイが足を止めた。砂に足を取られたのかと思えば、目を閉じてあさっての方角を見つめている。
「ロイ?」
「……水がある」
「水?」
 オアシスということか。砂漠の地にそれは貴重なものだったが、今のところ、二人にそれは必要がない。飲料用の水はあるのだ。道を外れて流砂にはまる危険を冒すより、このまま進んだ方がいいだろう。
 それに本隊の進みが気になる。次の作戦に合流できなければ、またリズムが乱れる。つまりは、他の作戦に駆り出されるということだ。ただでさえ、ゲリラ的に活動することの多い二人だ。
 一般兵を巻き添えにしかねない錬金術師と、そのサポート。後者は身内か、親しい者が勤めることが多い。階級も能力も問題ではない。錬金術師を命令に従わせられればそれでいい。
(……アホらし)
 上層部はアホだ、とヒューズは思う。錬金術師に頼りすぎているのだ。だが、その錬金術師というのは、ほとんどが研究肌の人間だ。戦を好まない。弁がたつし影響力もあるから、逃げるものを追わないわけにもいかない。逃亡しては処刑される。
 その是非はともかく、軍が振りまわされているということだ。
「急ぐぞ」
 迷うように遠くを見ているロイを急かす。そうしている間にも、さらさらと砂が足を埋めようとした。確かに、風上から水の匂いがした気がする。
 こうも乾いた場所にいると、本能的に欲しくもなるものだったが。
「いや、少し」
「ん?」
「寄らせてくれないか。先にいってくれてもいいが」
 ヒューズは顔を顰めた。そんなことができないと知りながら、言うのだろうか。自分だけが合流してもさっぱり意味がない。上官に殴られるくらいだ。
「すぐ追い付く」
 返事を待たず、ロイが背中を向けた。あんまり勝手な行動だった。しかし、それもいつものことだ。ヒューズは溜息をついてそれを追う。仕方ない。
(まあ、いいか)
 水を浴びたい気分には違いない。砂が服の下にも入りこんでいる。歩くと、じゃりじゃり音をたてるくらいだった。だいたい、多少サボったところでわかりはしない。二人しかいないのだから。
「おーい。あんま早く歩くなよ」
 足元を確かめながら追い付くと、ちらりとロイは振り向いただけだった。表情はない。けれど不思議に焦りを見せたような気がして、ヒューズは彼の肩に触れた。
「ロイ?」
「何だ」
 うざったそうに手が振り払われる。それも冴えない仕草だ。
「調子悪いのか?」
「……いや」
 置かれた間に、何か言おうとしてやめた。不機嫌なのか調子が悪いのか。どちらにしても、水端で休めば治る程度のものだろう。わざわざ諍いにすることはない。
 太陽はそれほど照っていない。風にだけ迷惑をおぼえながら、踏みぬきそうな砂の上を歩く。ロイの歩みは正確で緩慢だ。義務的に上げられ、降ろされる。そのうち足をとられて転びそうだったが、それはあり得ない気もした。
 ぼんやりしている時とは違う。妙に気をはっている。
「ロイ」
 どうも落ちつかなくなり、ヒューズはもう一度呼びかけた。
「何だ」
 声が掠れている気がした。単に砂避けの布のためかもしれない。けれど、そうでなくとも酷い声のような気もした。
「ロイ?」
 不審になってもう一度、彼を振り向かせようとした。ロイが足を止める。表情を見ようとして、ヒューズは彼が傾いていることを認識した。
 慌てて落ちる身体を抱きしめた。ロイが砂をけりつける。一度、引きとめてから、砂の上にそっと降ろした。
「……意識あるか?」
 顔を覗き込めば、半ば閉じられた瞳があった。ヒューズは顔を顰め、額に手をやる。熱があがっているようだ。水分は取らせていたはずだったが、甘くみていただろうか。ロイはロイでヒューズに任せているので、そういう文句は言わない。
 唇がわずかに動いた。ある、と答えようとしたのだ。
「水は」
 いる、と音のない言葉が紡がれる。ヒューズはすぐに水筒を開き、頭から水をかけてやった。空を仰ぐ。熱射病になるような日差しではない。
 水筒を口に押し当て、水を飲ませてやる。濡れた唇が動いた。
「ヒューズ」
「なんだ?」
「……これ、消してくれ」
「は?」
 するりと延ばされた手首から、何かの文様が覗いている。刺青、のような明確さだ。それが錬成陣と呼ばれるものだとはわかったが、意味がわからない。
 ひとまず消せといわれているのだから、と上から擦ってみる。がさつなやり口に、ロイが顔を顰めただけだった。
「水じゃ消えな……い」
「どうしろって?」
 掠れそうな声に耳を寄せる。
「その辺に、石鹸が……」
「石鹸!?」
「……」
 頷くと同時に、ぱったりロイは意識を失った。
(石鹸?)
 ぱたぱたとロイの身体を叩いて見つけ出す。確かに石鹸だ。唖然とそれを見てから、水で泡立てる。何をやってるのだろうと考えながら、腕を擦った。すぐにとはいかないが、なんとか消えていくようだ。
「おい、ロイ」
 これでいいのか?と問いかけようとして、ずれた衣服の下から、また似たような文様が見えたことに気付く。
 まさか、と青ざめた。もう片手も上げる。やはりそこにもあった。上着を引き上げてみると、腰にもある。どうやら身体中にあるらしい。
「オアシスって……そういう意味かよ!」
 歩かせるんだった、と思っても遅い。既に意識のないロイを抱えて、ヒューズは急ぎ歩き出した。手段を選んでいられない。錬金術のことはさっぱりなのだ。従うしかない。



 大人一人を運んだあとで、息を切らしながら服を引き剥がす。そのうちにロイが目を覚まし、ぼんやりとヒューズを見た。
「起きたか」
 ひとまず安堵する。しかしロイはぼんやりとして、軽く首を傾げた。
「おまえ、男色か? ……いや、別に偏見はないがな」
「ボケてんじゃねえ」
 ばしりと頬を叩いてやると、思い出したらしい。ああ、と呟いて隣のオアシスを見ている。水の匂いがして、気分が良くなったらしかった。
「悪いな」
「起きられるのか?」
 視線を揺らしてから、身体に力が入る。実にあっさりと諦めた。
「無理」
「おまえな、もうちょっと努力ってもんを」
「無理なもんは無理だ。だるい」
「……このまま放りこむぞ」
「砂がくっついてまともに歩けなくなったらどうする?」
 それはもちろん、ヒューズが運んでいくことになるだろう。堂々としたロイを、とりあえずもう一発ひっぱたいていた。
「……痛い」
「で、調子は」
 むっとした様子で、それでもロイは答えた。それなりにヒューズに感謝しているのだろう。ロイ社比だが。
「今はまともだが、いつどうなるかわからないな」
「何なんだ、そもそも?」
「錬成陣を見ただろう?」
「ああ、だからそれが」
 するとロイが不思議な顔をして、首を振った。そうか、わからないのか、という表情だ。またひっぱたいてやりたくなった。
「……いちいち描くのが面倒だろう」
 それは確かに、いつもヒューズも思っていることだ。しかしとにかくいつも几帳面に描いているものだから、そうでなければならないのだと思っていた。身体に描きこんで、それで良いなら楽そうだ。
「だから、描いておこうかと思ったんだが」
「ダメだったのか?」
「たぶん……」
 それきり黙り、顎に手をあてている。考え始めたようなので、ヒューズは聞き出すのを諦めた。まとめていない思考を聞かされたところで、頭が痛くなる以外の効果はないだろう。
 とりあえず現実行動班として、ヒューズはロイの衣服を脱がせていく。肌が露になるにつれ、描きこまれた錬成陣の数に呆れた。ほとんどびっしり、隙間なく詰められている。
「2,3個までは上手くいったんだ。だから増やしてみようかと……」
 呆れているヒューズに気付いたらしく、言い訳のような呟きが聞こえる。ヒューズは肩を竦め、転がすようにして彼をオアシスに飛び込ませた。
 清かな水の上に大きな波紋がたつ。木々も驚いて揺れたようだった。
「……いきなりそれはないだろう」
 特に驚いた様子もなく、ロイがそう言った。濡れた顔を拭っている。
「なんだ。ご丁寧に足から浸からせろってのか?」
「そうは言ってない」
「なら、いいだろ」
 無駄口を叩きながらヒューズも裸になる。ロイは浅く水に浸かっているが、どうもまだ動く元気はないようだ。
「って、この石鹸」
「汚染はしない」
 ならいいだろう。ざぶざぶと進み、ロイの身体を抱き起こす。背中にまで描きこまれた錬成陣は、まったく何かの宗教のようだった。
(宗教)
 どうも嫌な発想だった。坊主憎けりゃ、でもないが。
「それで」
 ごりごりと石鹸を直に押しつけてやる。ロイは身を捩って「痛い」と文句を言った。軍人らしからぬ軟弱さだ、とヒューズは思うことにした。気にせず続ける。乱暴なやり方でも、不思議と泡立った。
 水だというのに。これもまた、妙な方法で作り出されたものなのかもしれない。
「……たぶん、循環の問題だ」
 泡をのせて指先で擦ると、背中の痕が消えていく。ぽた、と落ちた泡が波紋をつくり、浮かんですぐに消えた。
「陣を描いただけでも」
 ロイが腕をあげた。退屈になったのか、ヒューズの肩を指で触れている。ぐるりと円を描いた。新しい術でも考えているのかもしれない。
「動かさなくても、何しろ皮膚の上だし、循環が発生するんだろう」
「循環、なあ」
 良くわからない。錬成陣が円でできていることだけは理解でき、それがつまり、循環ということなのだろう。ぐるぐると指を回し、泡立てて消していく。水を流すと、ロイの肌がやや赤く変わっていた。
 多少、罪悪感を覚える。皮膚は繊細であっても、軍人らしくないとは言えない。その辺は不可抗力だ。
「そうすると、皮膚の上にいくつも循環ができることになる」
「……なるほど」
 文字を消す作業に集中しながら、ヒューズは曖昧に頷いた。ロイの指が、けだるく肩をくすぐっていく。風が吹いて植物が揺れた。静かな空気が取り残されているようだった。
 妙な空間だった。まるで世界に二人だけで、いるような。けれどそうだとしたら、一体何をしているのだろうという話だ。
(洗ってやってる)
 それは、世界で二人だけですることではない気がした。
「だから身体に元々ある、循環が……」
 ロイがふいに言葉を止めた。一瞬、眠ってしまったのかと思った。呆れて揺らそうとして思い出す。
 調子が悪いのだ。
「ロイ?」
「……ああ」
 答えはあったが、だいぶ疲れている。急いで洗い流してやることにして、ヒューズは無言で作業した。ぱしゃぱしゃと水音がたち、木々から何かが飛び立つのがわかった。見えはしなかったが、この地にも飛ぶ鳥はいるのだ。
 背中をきれいにしてしまうと、腰にまでてのひらを落とす。抱きしめた姿勢からでは辛く、位置をずらした。肩に担ぎ上げるような姿勢になったが、なんとかロイはずり落ちずにいる。
 それにしても背中まで、どうやって描いたのだろう。
(鏡を使って?)
 なんだか馬鹿な話だ。この腐れ縁の親友には、なかなかそういうところがある。女の前では良い格好をするくせ、実は見目などどうでもいいと思っている。特に錬金術のことになると、みっともないとか、情けないだとか考えないようだ。
「循環してるんだ」
 何かを思い出したようにロイが呟く。誰に向けたものでもないようで、ヒューズは返事をしなかった。疲れている時の言葉など、寝言のようなものだ。答えてもろくなことにはならない。
 擦った尻が震えた。なにしろ裸なのだと思った。触れ合う身体に寒さを感じたのは、這い上がる水分のせいだろうか。
「ずっと考えてるんだ、ヒューズ」
「……何」
 熱を増していた身体を、今度は冷やしすぎたかもしれない。考え事をしている場合ではなく、ヒューズは現実的に思うのだ。身体がなければ思考もないのだとは、錬金術師は考えないのだろうか?
 面倒なことだ。
 かげった太陽が照って、ヒューズは安堵した。どうせ周りには熱せられた砂があるというのに。カーテンのように区切られた空気が、砂と水を、ロイとヒューズを遮っていた。
 静かなのはそのせいだ。二人きりなくせ、ひとりきりで動いている。
「死人が花を咲かせて、花が巡って人を生む」
 ろくでもない話を耳にしながら。辿った指先は、案外傷のない肌を確かめている。泡立ちがずるずると落ちて、ロイの足から水に浸かった。とけて戻っていく。上半身をきれいにしてしまってから、どうしようかとヒューズは考えていた。
 とにかく、支えているのもそろそろ辛い。ロイはすっかり身体を預けていて、何をする気もないようだった。まったく。
 役に立たない。
「簡単な循環だ。物が移動するだけ。人を作り出すことは、それに逆らったことではないのに」
「ロイ」
「死人から何が足りないのだろう。それが魂と呼ばれるものなら、それはどこに循環するんだ? そこから何が」
「なんだって足の裏にまで描いたんだ?」
 ロイの視線が通過して、自らの足の裏を見た。ああ、本当だと呟いた言葉が途切れる。溜息と一緒に水の中に尻をつく。石鹸を渡してやると、大人しく泡立てはじめた。
「やればできるんじゃないか」
「……」
「それで、何が言いたいんだ」
 手伝ってもう片方の足の裏を擦ってやると、これはくすぐったかったようだ。迷惑そうに瞳が尖る。おもしろがって、ヒューズは真顔で続けた。
 こすると指先が震える。身体の反射というものだ。そんなものを深く考えるなど、長老にだって必要がない。
 知る必要がないこと、というのはある。
「だから」
 泡泡になりながらロイが言った。
「おまえは、小さく見てるだろう」
「何が」
「前向きだって話しだ」
「ああ……うん?」
 いまいちわからない。きっとろくでもないことを言うのだろう、と思っているので、どうも張り合いがない。
「毎日みたいに人が死ぬけど」
「そりゃ、死ぬが」
 そんなことを一々考えては生きていけない。切り捨てる。頭の端に理解したとしても、そんなことを考えてはいけない。ここは戦場なのだ。まともな主義を貫きたいのなら、こんな場所に来るべきじゃない。
「それも循環だ、と私は考える」
「……まあ、いいが」
「考えすぎだっていうんだろう」
「ああ」
 そんなことを深く考えていたら、そのうち妙なところに辿りつく。わかっていそうなものだった。
「でも私はそれで救われる。おまえは小さく見る。私は大きく見る。けど、要するに結論は同じだ。気にしてたって仕方がない」
 本気で何が言いたいのかわからない。するりと太ももを擦って、また黒い文字が消えていった。これで最後かと見まわす。もしかすると、とんでもないところにまで描きこんであるかもしれない。
「たまに思う」
 膝の裏をしっかり確認する。黒ずんだ痕が残っているのは、これは構わないのだろうか。どの程度消せば効力がなくなるものなのか。ロイは自分の足の裏をとても適当に洗っていた。
「……たまに」
 言葉が止まった。見上げてみれば、困りきった顔をしている。
「ん?」
「おまえがいないと私は死んでいたな」
 思わず目を点にした。
「……そりゃそうだな。完全に」
 死んでただろう。だからこそ放っておけないのが問題だ。といって、捨てておけば誰かに拾われてうまくやってそうな気もする。
「でも、私がいなければおまえも死んでた気がする」
「おいおい」
 しかし考えてみるに、それもそうかもしれない。頼りあって生き抜いてきたのだから、それも当たり前だ。
 何を今更、なのだろう。
「つまりここにも循環があるわけで」
 だんだん苛ついてきた。
「あのなあ、何が言いたいんだ?」
「うるさいな。だから、順序があるんだろう」
「俺は錬金術師じゃねえっての。さっぱりいえ、さっぱり」
「さっぱり言うのは私の流儀じゃないんだ。正確に説明しようとしてるんじゃないか、人が」
「だから何なんだ、一体」
 急かすとロイは水から腕をあげた。こいこいと手招きするので近づく。首に抱きつかれると、何しろ逃げたくなった。
「なんで不調なのか考えてたら、おまえのせいだとわかった」
「何だと?」
「循環してない。おまえが足りない」
 沈黙した。そこはかとなく、理解したような気がしたが、間違っているような気もした。
「交ざろう」
 耳元で言われて、ヒューズは思わず空を見上げた。
「……ひとつだけ良いか?」
「なんだ」
「今、物凄くおまえが嫌いになった」
 ロイが笑った。
「だから、交ざろうと言ってるんだ」



 ふやけて溶けるな、とヒューズは思った。何も水の中でしなくてもいいものだ。けれど勢いというもので、つまりはもう、どうでもよくなってきたせいだ。
 わけのわからない事を言う、口を黙らせる。そうして欲しいということなのだろう。
(最初から)
 何も考えたくないと言えば良いのだ。
「面倒な奴……」
 呟くと潤んだ瞳が返ってきた。それでいい。ヒューズもだらだらと下らない言葉を聞くよりは、そうやって見られたほうがとても良い。あれだけ触っても感じなかった感覚が、それで目覚めるのだから面白い。
 水音がばしゃばしゃと鳴る。ロイが水面を叩いていた。
「何」
「静かだから」
「……」
 やっぱりこいつはわからん。
 とにかく、思考するのは自分の性質ではない。ヒューズはすぐに割りきって、行動で示すことにした。腕を伸ばして腰を引き寄せる。膝に座らせるようにしても、重さは感じなかった。
 腰にある水面が波立ってくすぐっている。
 うん、と小さくロイが声を漏らした。太陽が照らしている。下肢は冷たく、頭は熱かった。風邪をひくに違いないと思う。そんなことを、ロイは考えているのだろうか。
 無駄な思考を重ねているくせ、現実感がないのだ。どこまでも飛んでいて仕方がない。とても一人にはできない。
「疲れるなあ」
 背中を撫でさすると、くったりとロイが呟く。状況には似合わない言葉だったが、環境には似合っていた。時を止めたような水の中で、さらさらと響いていく。
「……疲れるな」
 その言葉に疲労を解かれたような気がして、ヒューズは言葉を返した。やはりさらさらと辿ったのかどうか。触れたロイの身体が緩んだ。目を細めてヒューズはそれを見る。太陽の熱に溶かされ、水に溶かされていた。
「しかも、ひりひりする」
「そりゃ悪いな」
 心もなく答える。擦ったのは当然のことで、悪びれる必要はない。
「歩けないかもしれない」
「それはその時だな」
「……そうだな」
 肩に触れた髪が濡れていた。ひどく冷たく感じる。背骨に沿わせて指をずらすと、胸を押しつけるようにカーブした。乾いている上半身を感じると、下の感覚がない。
 交ざっている、とヒューズは思った。どこまでが重なっているのか。
「ヒューズ」
 気だるく、焦りもしない言葉がそこにあった。
「愛してる」
 続いた、どうせ本気でもない言葉で、ヒューズはたまらなくなる。そんなことは考えたくはないのだ。考えてはいけない。けれど、こうして触れているのに、どうして重ならないことがあるだろうか。
 く、と喉を鳴らした。笑おうとしたのだが無理だった。身体を揺らすようにして、ひきつれた喉を押さえた。
 ロイの手が伸びて瞳を遮った。震えた瞼から落ちた水が、冷たい水に混ざって消えた。その音を聞くと同時に、叫び出したい衝動がある。
「ちくしょう……!」
 ヒューズの震えた声に「ああ」と答えて、ロイの腕が絡んだ。実に彼らしくない仕草だった。下らないことを、ずるずると言いつづけるしか能がないくせ。泡の残ったてのひらが回り、ヒューズの背中を洗っていった。
 自分もまた、こんなはずはないと知っている。前だけを見ている。どうだっていいことだ。考えては、いけない。
 けれど交ざっている。
 水が温められて蒸発し、二人の身体にあたって落ちた。ロイは何も言わなかった。乾かされすぎた服が、もうしばらく二人を待っていた。