今日もふくふくほっぺがかわいい。
 勤務中。咥え煙草に欠伸をしつつ、ハボックはそんな不埒なことを考えた。それも上官であるロイ・マスタング大佐のことであるので、これが知られれば丸焼きだ。いや、軍の狗としては転勤だとかそういうことを気にするべきかもしれないが。
(近くにおいていたぶるタイプだよなあ)
 実に。間違って転勤になったら軍はやめて、肉体労働でもして暮らそう。ハボックはなめらかに納得して、今日も不味い茶をすすった。頭脳労働にそれほど必要とされない彼は、大佐のお守で活動中だ。いつもであれば傍を離れることのない中尉だが、優秀な人は色々忙しいのである。
「ふー……」
 不味い茶である。
 こんな不味い茶はそんじょそこらにあるまい、と思うと、風流な吐息が漏れた。ロイは書類に顔をうずめながら、む、と視線をよこした。椅子から動けない状態で、そんなことをされても。
「痛くないっすか?」
 とりあえず前かがみの姿勢が辛そうで、そう問いかけてみた。
「なら、外してくれ」
 更に頬を膨らせて示すのは、自身を椅子に縛りつけている縄だ。なかなか隙のないやりかたで、軽く食いこませてある。まあ、焔の錬金術師にこんなことは、まったく茶番ではある。
 しかし、施した相手が問題だ。
「嫌っすよ。中尉に怒られるから」
「なら自分で外せっていうのかっ」
 かなりきているのか、怒鳴られた。ハボックは耳を塞いでやりすごした。
「……大人しくしててください」
 はー、と溜息をついてロイが身体を倒す。逃れるのは本当に簡単なことであるのに、とてもそうできない。蛇の生殺しのような状況に耐えられないものらしい。
 それだけサボった自業自得、だと思うが。
 目の前にいると哀れにもなる。
「茶、飲みます?」
 いらん、とくぐもった声が返ってきた。机につけられた頬をハボックは見ていた。なんともいい、と思う。とても誰にも言えたことではないが、実は。
 この上官は昔飼っていたハムスターに似ている。
 ハボックはとんと出世だとか、権力だのに興味がない。軍に入ったのもなんとなくずるずる、というものだ。それがロイに積極的に追従しているのは、つまり、そういう意味によるところだった。
 ちなみに隠しているのは、不興をかうことを恐れているわけではない。
 単に、軟弱に思えて恥ずかしいのだ。死んだハムスターを未だに想う男だ、と。そう言われるのは辛いものがある。
「まあ、仕事したほうがいいんじゃないすか。中尉が帰ってくるまで」
「……十分あれば終わる、こんなもの」
「だったら終わらせればいいんじゃ」
「ばか。終わらせたら時間が余るだろう。無為にここに縛りつけられていろってのか」
「はあ」
 良くわからないが、色々と問題なようだ。終わったら外してあげますよ、とはハボックは言わなかった。こうして見ていられるというのは、なかなかない機会だ。上官の顔を、そうしげしげ見られるものではない。
 ハムスターだから、といえればまだいいが。妙な誤解を生みかねない。何しろ多いのだ、軍隊という場所には。
(おまけに中尉がいるからなあ)
 彼女をわざわざ外して大佐目当てというのは、それはもう完璧なあっちだと思われる。間違いない。
「とにかく早く終わらせるべきじゃないっすか。中尉ももう、帰るだろうし」
 ちらりと時計を見て言うと、ロイはつまらなそうに答えた。
「会議はいつも30分延長するんだ」
「そう思ってる時ほど、ってことも」
「確実だ。30分で延長手当てが出るんだ」
「やな事情っすねえ」
「まったく。馬鹿らしいことだ」
 そう言いつつ、ロイはにこやかだ。悪習もたまにはいい、と思っているのかもしれない。というかハボックは実際そう思った。にこやかな頬を存分に見られる。ひまわりの種をやりたくなり、ハボックはそわそわした。
「ハボック」
 ふと、上官が声をかけてくる。
「は?」
 落ちつきのない態度を知られたか、とやや焦って聞き返す。ロイは自由になる片手の指先をのばして見せた。
「爪切れ」
「はあ?」
「爪きりはある」
「……」
 不自由なら不自由で、文句を言われず部下を奴隷にする方法を発見したようだ。ハボックは曖昧に返事をして、よいしょと椅子を立った。のそのそと近づいてみれば、ロイの爪は短くもないが、伸びてもいない。
「……また今度で良いんでは」
「今がいい。仕事に差し障る」
「はあ」
「机に爪きり」
「はあ」
 逆らって逃げられるより、いいか。
 ハボックはすぐにそう思いきって、がらがらした机の中から爪きりを探し出した。なかなか高級な爪きりだ。もてる男は身だしなみ、とハボックはなんとなく思った。参考にしよう。
「切りすぎるなよ」
 椅子に縛られたままで偉そうに手を差し出す、という器用なことをしながらロイが言った。ハボックは片手に爪きりを握り、その指を持った。
「うーん」
 しかし人の爪を切るなど初めてのことである。やや躊躇った。が、まあ、いいかと爪きりを動かす。頼んだ人が悪いのだ。
 ぱち、ぱち。ぐしゃ。妙な音がたった時だけ、嫌そうにロイはハボックを見た。慣れて上手くいくようになると、欠伸の音が聞こえるようになる。上向いてみればずいぶん眠そうだった。
 思わず、手が震えた。
「……」
 幸い起きなかったようだ。しかし。
(……か)
 かわいい。
 ハボックはちょっと感動した。ほっぺをむにりたい。さすがに嫌な上司も寝顔だけはあどけないものだ。そして、ふっくらした頬。思わず手を止めた。
 動きがないことに気づいたのだろう。ロイが薄目を開ける。
「ハボック?」
「あ、はい」
 すんません、と小さく呟き、爪きりを続けた。しばらくロイの視線を感じていたが、そのうちに消えた。寝息は聞こえないが、また眠りについてしまったのだろう。
 ぱち。と、小指までの爪きりを終わらせる。そろそろと視線を上げてみると、ロイはぼんやり瞳を開いたところだった。さすがに深く寝入るつもりはないらしい。ちらりと時計を見た。
「……時間か」
「そうっすね、そろそろ」
「こっちもしろ」
 縛られ、後ろに回った指を顎で示す。もう片手はペンを握ったところだった。仕事を終わらせてしまうつもりらしい。やや真面目な顔だ。
 ハボックは肩を竦め、縛られた指に近づいた。血の留まるような縛り方はしていない。中尉はそのあたり気の利く人なのだ。大佐の扱いに慣れている、とも言う。
 しかし、長く押しつけられているせいで、感覚は少しおかしくなっているようだ。
「ん、」
 指に触れると、わずかに声をあげた。くすぐったい、くらいの声だ。身体をもそもそと動かした。意識は書類に集中しているのか、ペンの動きは止まらない。
「……、ン」
 ハボックが指を引き上げると、また声がした。
(……)
 なんとなく違和感を感じつつも、気にしないことにする。爪きりをさしこんで、ぱち、と切る。
「ふ」
 吐息のような声が漏れて、背中がひきつった。そのあとでペンを持った手が背中をかいている。また、書類に戻った。
「……」
 ハボックは無意識に背中をかいた。それから首を振り、爪きりを持ちなおす。ぱちぱちとリズム良く、途切れないように続けた。小さな声は聞こえていたが、聞かない。なんとか小指までを終わらせる。
 手を離すと、解放された指がもぞもぞと動いた。爪の具合を確かめているようだ。それだけの仕草だというのに。
 いつも手袋の下の手は、白い。そして案外細い。
「……大佐」
 ハボックはまた背中をかいた。
「終わったか?」
「そっちは」
「まだ。あ、磨いてくれ」
「磨く?」
「やすりで」
 見れば爪きりの裏にはやすりがついている。ハボックはしばらくそれを見つめてから、気を引き締めて爪磨きにかかった。もてる男はここが違う、と考えてみる。
 何か違うような気がした。
「んー……」
 今度は気持ちよさそうな声だ。この人をどうにかしてくれないだろうか、とハボックは思った。頬など見えていない。なんだろうこれは。背中がかゆい。首のあたりもなんかかゆい。
「終わった」
 大佐がペンを投げ出すと同時に、救いの主が現れた。
「ああ、ちゃんといますね」
 安堵するわけでも、意外に思うわけでもない。いつもの、確認するだけのきれいな声だ。
「少尉は?」
「あ、ここにおります」
「あら」
「爪を切らされて、」
「無理に言ったわけじゃないぞ。ただ、手が動かないんだから仕方ないだろう」
 母親に言い訳するような調子でロイが言う。はは、とハボックは肩を竦めて爪きりを戻した。なんとも言えない。
「仕事は」
「終わった」
 胸をはるのは、つまり誉めてくれ、ということらしい。
「当然です」
「まあ、とにかく外してくれ。トイレに行きたい」
 サボる気なのではないだろうか。中尉はそう思ったらしく、時計を見た。すぐに多少なら構わないと結論したのだろう。わかりました、と頷いて、さらさらと縄を落としていく。大佐は頬もにこやかに部屋を退出していった。
 あきれたような中尉がハボックに向き直る。
「ご苦労様」
「……見張ってただけっすけどね」
「爪きり」
 書類を確認しながら、中尉はくす、と笑った。
「何か?」
「いえ。男の人にそんなことを頼むなんて、珍しいと思って」
「ああ、確かに」
 女性にしか触りたくない、と公言している男だ。よほど気を許してくれているのだろうか、とハボックは満更でもない気になった。懐かれているというのは悪くない。
「それにしても……、」
 中尉が珍しく言葉を止めた。
「ああ、いえ」
「え、なんすか?」
 気になるじゃないですか、と言うと、すぐに彼女は躊躇いを消した。あまりこだわらない人なのだ。
「なぜかしら。妙なことを思ったのよ。大佐が女性でなくてよかった、と」
「女って」
 思わず爆笑しそうになった。
「もしそうだとしたら、男扱いされてないのは問題よね?」
 笑いかけた顔を戻し、ハボックは真顔で彼女を見かえした。そのあとで後悔した。これは笑い飛ばすところだ。本当に。
 そこでひっかかってしまったのが、運のつき。