「おや、ロイちゃん!」
 存在を確認されるなり、ふくよかすぎる胸で抱きしめられた。これで3人目の反応だった。もごもご息ができなくなりつつ、ロイは悪い気もしない。懐かしい顔に目を細めて、にこりと笑う。
「久しぶり、姉さん」
「やあだ、あいかわらずだねえ」
 豪快に笑った彼女は、ロイの頭をがしがしとかき回した。くらりとする。ロイとしても年輩の女性に、もう少しわざとらしくない呼びかけがしたかった。しかし「おばさん」は失礼にあたりそうであるし「お母さん」は、ロイの年頃では本当に母親のようだ。
 名前を聞けば良い話なのだが、それはそれで違う気がする。彼女はロイにとって、良い意味でとても近く思えた。そしてちょっと恐れ多い。
 子供のいる女性というのは、神のようにも思えていた。
「冬期休暇なんだって。いつまでだい?」
「えっと……、10日くらいかな」
「短いねえ。夏にも帰ってこないもんだから、旦那様、寂しがってらしたよ」
「……はは」
 想像できず、ロイは難しい顔で笑った。たぶん、彼女の善意的解釈というものだろう。
「それで、あんたは元気なのかい?」
「ん。まったくとても」
「勉強は」
「ちゃんとしてるよ」
 そこはしっかり笑っておいた。心配させたくないし、本当に進んでいる。多少の優越感を持ってもおかしくないほどに、ロイは優秀だ。そんなことを知ってか知らずか、そうかい、と彼女はまたロイの頭を撫でた。
 きちんと整えてきた髪がまた乱される。後で直さなければいけないが、もちろん今はそんなことは考えず、にこにことされるままになっていた。
 ふと、彼女が手を止める。
「なんか、ふらついてるね?」
 ロイはちょっと情けない顔をした。見破られてしまう、というのがいただけない。確かに授業がないことを良いことに、連日徹夜の毎日だった。寮の暖房が壊れなければ、帰ってくることもなかっただろう。さすがに凍死はしたくない。
 それに、目の前の勉学の裏で、気になっていたのも確かだ。毎月、ありがたい生活用品とラブレターが届いていれば、忘れるわけにもいかない。
「まぁた寝てないんだろう、ロイちゃん」
 図星だ。言葉に詰まっていると、彼女はロイの腕を掴んで、ずいずいと歩き出した。
「部屋の準備はしてるよ。旦那様もいないし、夕方まで寝てな」
「あー……うー」
「逆らうんじゃないの」
 がつんとロイの頭を叩き、彼女は笑った。
「休暇にきたんだろう?」
 その通りだ。不思議な真理を見たようで、ロイはこっくりと頷いた。
「休暇にきたんだ」
 力の入った身体が、少しだけ緩んだ気がする。彼女はまた豪快に笑い、ロイの背中を叩いた。痛いほどだったが、気分はゆっくり、眠気を受け入れ始めている。



 懐かしいベッドの感触は、思ったよりもずっと、ロイをくつろがせてくれた。やわらかい午睡に入り込み、ロイはほわほわとまどろんでいた。規則的な生活をしていれば、とても得られるはずのない贅沢だ。
 そばにある窓から陽光が落ちてくる。それを求めるように向きを変えようとして、何かがつっかかった。
「ん?」
 眉を寄せて、ぐいぐいと毛布を引く。しかし身動きはならず、ロイは反対側に転がった。すると脇腹あたりで妙な感触がある。
 ぱちんと目を開いた。
「へ?」
 すると目の前に、被さるような陰があった。いくつかまばたきをしてから理解する。誰かが。
 というか。
「……ぶ」
 見慣れた相手だった。懐かしい、と思うよりも唖然とする。男は片手にロイから取り上げた毛布、もう片手でロイの服を引っ張り上げている。
「ぶらっどれー、さん?」
 目を点にして、ロイは男を見返した。すると酷く真面目な顔をした男が、露出したロイの脇腹に触れた。
 ひゃ、と感触に反り返ってから、ロイは慌ててもがいた。
「ちょ……何してんですかまたあんたはっ」
 寝た姿勢からなので、蹴りに力は入らない。しかし相手は両手がふさがっている。手を振ってひっぱたこうとすると、片手が毛布を離して飛んできた。右手を捕まれる。ロイのもうひとつの手は、自分の身体につぶされている。
「わ、」
「少し、大人しくしていたまえ」
 冷静に男は言って、じたばたするロイをものともせずに脇腹に触れる。ふにふに、と確かめるように触れたあとで、ふむ、と頷いていた。
「だ……っ、この、えろじじ、ぃ」
 また笑えない悪戯だ。そう認識したロイは、ずりずりと身体をあげた。そうして捲れた服を戻そうとする。
 けれど無駄なあがきを重ねる前に、その手は離れていった。
「やはり」
「なに、がっ……」
 急いで起きあがり、ロイは壁を背に男から距離を置く。触れられた脇腹に鳥肌が立ちそうだった。なんだかぞわぞわしている。警戒も露わなロイに、男はにこりと笑った。
「痩せているな」
 う、とロイは言葉に詰まる。混乱しつつも脇腹を隠したが、まったく無意味な行動だ。動揺しきって無防備になったロイの腕を、たやすく男が掴む。
「ふむ。ここもかね」
「……うるさい」
 ロイは唇をゆがめて目をそらした。不摂生を続けているので、どうもひ弱になりつつあるのは違いない。錬金術の研究でも、長時間、屋内にこもっていることになる。
「ふむ」
 男は何事かを考えたようだった。時計を見る。それから外を見た。
「よし、では、とりあえずおやつを食そうではないか」



 調理場に行くといきなり怒られた。ロイではない。
「まあた旦那様、つまみ食いですか」
「はは、いいではないか。今日は飢えた子供がいるぞ」
「あらまあ。だしにされちゃったのね、ロイちゃん」
 しかたないわねえ、と残り物らしいフルーツをもらった。油にまみれたようなテーブルに、男は気にもせず腰掛ける。食堂の婦人はなかなか勤勉で、こぎれいにされていることはロイも知っている。腰掛けてフルーツを摘んだ。
「夕食につっかえないようにするんだよ」
 はい、と女性には元気に答えた。男に向き直って欠伸をする。実にほほえましそうに、男はそのさまを眺めてきていた。
「学業はどうかね?」
 あいかわらず、高貴な家のフルーツは甘い。寮の食事になれたロイは、少しだけほろりとした。普段はとりあえず、カロリーさえとれていればいいのだが。
 女性がくれたものとなれば、また感じ方も違ってくる。
「それなりに」
「成績は聞いているがね」
 ロイは手を止めた。視線をあげる。
「君は期待された錬金術師だ。私が気にしても不思議ではあるまい」
「……ならいいけど」
 高官の後ろ盾がいることは、できるだけ知られたくないことだった。けれども何もかも世話になっている状態で、そんなことも言えない。出世払いなら自信はあるが、今は何一つ返せない。
「あぁ、浮き名は聞かなかった。うまくやっているようだな」
 ロイが引きつった。視線を逸らすと、男が愉快そうに笑う。
「まあ、君のいいようにしたまえ。結果を出してくれれば、細かいことは気にせんよ」
 そこまで言われて、大きな態度もとれない。ロイは苦笑して「ありがとうございます」と返した。矛盾した顔がおかしかったのか、また男が笑う。
「それと来年は、夏も帰ってきたまえ」
「……帰りたいですが」
「うちでも研究はできると思うがね」
「いえ」
 そうでもない。女性はいいが、この男がちょっかいをかけに来るのでは。
「では、夏は冷房が故障するかもしれんな」
「は」
 ぱっくり口を開け、ロイは男を見た。冗談だとも本気だともわからない細い目で、男はにこにこ笑っている。
「自主的に帰ってきたまえ」
「…………はい」
 ロイは深く息を吐いて答えた。本当にそうだったとしても、たまたまそれを利用しているだけにしても。この男が士官学校の備品のひとつやふたつ、壊せてしまうのは確かだ。直接的にも、間接的にもだ。
 冷房の修理法を考えるという抵抗もあるが、それよりも学びたいことはいくらでもある。研究とデートに熱中していたいお年頃だった。
「ところでマスタング君。研究の成果を見せてもらっても?」
「あ、はい」
 ロイは頷く。自分もそれを見せたいのはやまやまである。だいぶ使えるようになってきたものを、この相手に試してみたい気もする。
「でも、家の中だと危ないし」
 不穏な台詞だったが、男はまったく動揺せずに頷いた。
「中庭でいいだろう。多少、壊しても構わんよ」
 にこにこと笑って立ち上がる。フルーツを口に入れながら、ロイも慌てて立ち上がった。男はなんだかうきうきしているようだった。
「楽しそう、ですね」
 言うと、深々と頷く。
「まったく君がいないと退屈でね。世の中、刺激がなくてはいかん」
 やはり善意的解釈だった、とロイは思った。