混雑した思考のままで目を覚ました。腕に痛みが残っている。指を動かすと、はげた爪が引っかかる。堪えて起きあがり、ロイは周りを見回した。
「目が覚めたかね」
「……あ」
 いつもの部屋の中だ。男はベッド脇の椅子で足を組んでいる。夜は深く、明かりはささやかだった。静かな空気に騙されそうで、ロイは首を振った。
 まず聞かなければならないことがある。
「ユリアは……」
「君が掴んだ手首の痕以外は傷もない。家に送らせたよ」
 ロイは息を吐いて安堵する。彼女の手を離した覚えはなかったが、気を失う寸前の記憶が曖昧だ。思いの外力強い、男の手の感触ばかりは残っている。
(いた、)
 土の入り込んだはずの爪は、きれいに透き通っていた。誰がしたものかわからない。少なくともこの男ではないだろう、とロイは思った。
 では、服を着替えさせたのも?
(まずい、かな)
 それも自分で呼んだことだ。半ば覚悟して、ロイは浅く呼吸した。
「女で身を誤る男は多いだろうがね」
 穏やかな表情のままで、男が言う。
「君ほどそれを後悔しない者もいないだろう」
「……恐れ入ります」
 そうとでも言うしかない。ロイは間違いない評価に、ちょっと遠くを見て答えた。ただ騙されているだけの男では、女性を幸せにはできないが。
「ロイ・マスタング君」
「はい」
 背筋に力を込め、ロイはベッドの上で正座した。何を言われてもおかしくないと思う。役に立たなければ切り捨てられる。文句は言えない。
「見捨てられないのは、女性だけかね?」
「……」
 伺ってくる視線に、同じ静かな視線を返した。それを求められているだろうとはわかっている。軍にいる以上、そういうことになる。任務を果たせない男であれば、必要がないということだ。
 優しすぎる男では、ろくな軍人にはなれない。
「すみません」
 謝ったのは、それでも変えられない自分の性質を知っていたからだ。彼女を見捨てるようなことがあれば、もうどこにもいられない、生きてもいられなかっただろう。ロイは本気でそう思う。
 さらりと男が告げた。
「私には、彼女に君ほど価値があるとは思えないがね」
 発作的に殴りたくなった自分は、よほど重傷だと思った。なんとか堪えたのは奇跡的だ。こういう男なのだから仕方がない。
「……価値観の相違でしょう」
 だいたい殴っても当たりそうにない。腕の付け根から指先まで、痛くないところがないのだ。
「誉めたんだが」
 ふむ、と顎に手をあてて男が言った。そういえばそうだったかな、とロイは思い返した。価値があると言われているのだ。
「ありがとうございます」
 実に心のない返事をすると、男は肩を竦めた。どうにも妙な雰囲気になりそうで、ロイはこっそり息を吐く。けれど、このまま放り出されたりはしないようだ、とりあえず。
 使えない男の印象が強くなったことは否めない。差し入れはもうないかもしれないな、と思った。
(食堂の飯は不味い……)
「……まあ、それも構わんか」
 呟くように男が言って、ロイはかすかに眉を上げた。自分ならばどうだろう、と考える。女性に惚けて仕事ができない男は、すぐさま切り捨てるだろう。もっとも、それがよほど使える相手であれば。
 悪くないと思うだろう。いつでも切り捨てる弱味を握ったわけだ。
(まさか)
 男がそんなことを考えているわけもないだろうが。ただの子供でしかないロイに。
「今回のことは良しとしよう。もっと上手くやるべきだったとは思うがね」
 それはその通りだ。何も言い返せず、ロイは俯いた。
「錬金術というのは、それほど役に立たないのか?」
「は、いえ。やりようを間違えたのは……」
「その、服の下の痕よりもかね」
 ロイは息を止めた。一瞬、痛みさえ忘れて手を握りしめる。予測されていたことなのだ、とゆっくり力を抜いた。すべてが知られたわけじゃない。
「ロイ・マスタング君」
 けれど、血の気が引いていくのがわかる。低い声で呼びかけられると、それだけで恐ろしくなる。何に怯えているのか、自分でもわからなかった。だからなんだというのだ?
 大したことではない。
 責められているわけでもない。それに怯える理由は、自分自身の中にあるのだ。
「……ああ」
 息を吐くように声を落とす。男が目を細めた。感心したのだと言いたげなそれに、また冷えていく背中を感じる。気持ちが悪かった。意識が遠のきそうで、嫌になるほどはっきりしている。
 どうにもこればかりは、自分でどうにかなるものではない。血の気は引くし、背中は冷えるのだ。あとはまともな言葉を紡ぐしかない。
「そう……、そうですね、多少は」
「話したまえ」
 荒げもしない声で、けれど逆らえなかった。ロイは唇を噛む。まだ何も理解できなかった。自分はなぜ、本当に、彼に真実を言わなかったのだろう。間違いだと思っている、のか。
 そうではないはずだ。すぐに認められるような間違いを、どうして行うだろう。
(怖いのは)
 失望されることではない。
「マスタング君」
「上級生です」
 口を開きながら、ロイはようやく気づいていた。
 失望されることも、放り出されることも怖くはないのだ。それはいっそ、男に見る目がないのだと言えた。ロイは、自分に価値があることを、自分自身で理解している。相手が馬鹿なら、こちらから必要がない。信じさせるまでもない。
「卒業後の便宜を」
「そんな権限があるかね?」
「教師に……、素行を報告させるだけです。特待がとれれば上に進むまでもない」
 ほう、と男が呟いた。
「すぐに仕官かね。もったいない話だ。その若さで」
「幼年学校だろうと実績があるだけでいい、はずです。あとは国家錬金術師の資格を取れば、それが一番早い」
「確かに、そうだろうな」
 軍の上層部に食い込む男は、簡単に頷いた。
 むしろ士官学校を出てしまうより、悪くない道だと言える。国家錬金術師は一定の地位までは比べようがない速度で昇進するが、士官学校を出ていれば、そちらとの兼ね合いが発生してしまう。
 だからといって、資格だけではそれ以上を望めない。錬金術師は軍人に向いていない、ということだ。けれど幼年士官学校を上位で卒業していれば、悪くない実績になる。
「主席を取っている暇は、正直ありません。研究の方に集中したい」
「それよりも、早い話を選んだ、とね」
「……そうです」
 ロイは強い視線を向けて頷いた。そうでもしなければ、強い自分を保てそうにない。弱く跪いてしまうような、そんなことを望んでいない。男もまた、そうだろう。
(怖いのは)
 どうしても視線が揺れた。何を考えているのだろう。それこそ、まったく一秒の特にもならないようなことだ。愚かしい、とロイは自分を思った。
「君が何をしようと、構いはしないが」
 ゆっくりと足を組み替えて、男が言う。視線は逸らされず、距離も近づかなかった。断固なほどの距離を保っている。その椅子は床に張り付いたようだった。
「後ろめたいならやめておきたまえ。見苦しいではないか?」
 その言葉の通りだ。ロイは視線を伏せるようにして床に這わせた。見苦しいに違いない。自分でためらうようなことを、頭に言い聞かせてできるものではない。
「そのために問題が起こったのだと思うがね」
「……はい」
「君らしくもない」
 苦笑した。らしくないと言われたところで、そうなっているのだ。
「件の女生徒は、ひどく落ちこんでいるそうだ。彼女は君が好きだったのだろうね?」
「……見つかるとは思ってなかった」
 最も辛く思うのはそこだった。ひどくプライドを傷つけた彼女に、どうすれば理解させることができるのか。二人の男に求められたと、嘘を証言しても虚しいばかりだろう。それもロイのためなのだ。
 大事にすべき人に、守られている。その状況がたまらない。けれどロイにはどうすることもできなかった。ロイの姿を見ても辛いだけに違いない。
「どうする気かね」
 男が問いかけた。息を吸って吐く。身体が上下したのを感じた。
「さあ……」
 曖昧すぎる返事をしても、男は表情を変えなかった。追求することなく、ロイの言葉を待っている。
 ゆっくりと、ロイは足を崩した。膝を抱える。緊張を続けていたせいで痺れている。乾いた瞳にまばたきをして、視線をあげた。
「あなたは、どう思うんですか」
「さて?」
 わずかにだけ、瞳に冷たい色を見た。下らないと思っているのだ。
「君のことは君で決めたまえ。従うだけの男はいらんよ」
 これ以上なく冷たい言葉に、どうしてかロイは笑うことができた。どこか切れてしまったのかもしれない。だが、拘束されていたような胸が楽になった。
「いつも迷ったのは、あんたのことです」
 思い返しながら呟く。結局、戯れるだけで済まなくなった優等生が、それ以上を求めてきた時に。大声を出して、女性に気づかせてまで抗ったのは。
「俺は、あんたの狗だから」
 飼われている、男に。失望されたくないと思ったわけではない。そんな殊勝な性格ではないのだ。いつもロイの檻は、自分の中にある。
「牙のない狗かね」
 つまらなそうな言葉に、また笑った。
「そうじゃない。二君に仕えたと思われるのが、嫌なだけだ」
 ロイの言葉は、ほとんど乱暴なものだった。飼い主に向けるようなものではない。言葉尻に何を思うような男でもないだろうに、しばらく、男の瞳は迷っていた。ロイはそれをのぞき込む。
 わずかに前傾した姿勢で、距離が近づいた。
「……君は良くわからんな」
 組んだ足をおろしながら、男が言う。
「従順かと思えば反抗的だ。だからおもしろいといえばそうだが……君の主人は、女性ではないのかね」
「位置が違う」
「なるほど、では」
「もしも、あんたが俺を飼い続けるなら」
「好きにしたまえ」
 目元を細めた言葉は、実に鷹揚なものだった。冷たいわけでもない。言い捨てたわけでもなく、動物に向ける柔らかさが込められていた。
 だからロイはのばされた手に逆らわず、喉元を撫でられて顔を上げたのだ。
「私にも、それくらいの度量はあるだろうからね」