すさまじく嫌な予感がして、ロイは目を覚ますなり上着を押さえた。腰にある手の感触。明るい部屋の中で、にこにこと男が覗き込んでいる。セーフ、とロイは思った。
「おはよう、マスタング君」
「……朝の挨拶にしては、品性がないと思うんですが」
「挨拶は形式ではないよ。痩せたかな?」
「とりあえず離してくれませんか」
 溜息をついて言うと、存外あっさりと手は離れていった。気が変わらないうちに、とロイはさっさと起きあがる。太陽の光が眩しい。昨日もまた研究に熱中して、眠気を忘れ去ってしまっていたのだ。
 もう昼頃なのだろう。しっかり背筋を伸ばして男が言った。
「さて、食事をしたら、今日も勉学といこうか」



 あまり勉強にならない、そのくせ時間ばかりはかかる課題というものを、いくつか与えられていた。嫌がらせに違いない。ロイは教師に嫌われている。それほど問題のある生徒でいたつもりはないが、つまり女教師には嫌われていないと、そういうことだ。
(相互作用)
 だからといって男に好かれたいとは思わない。苦笑してペンを握り直す。
「気がそれていないかね?」
 隣で本を読みながら、片手間に男が問いかけてきた。何も教える気はないだろうに、とりあえず保護者気分を満喫しているらしい。
 人の趣味をどうこう言える立場でもなく、ロイは重く答えた。
「……いいえ」
 きちんと机に座っているし、ペン先は真面目に進んでいる。雰囲気だけは悪くない昼下がりだった。やわらかな陽のふりそそぐ下で勉強だ。しかしロイはどうにも、たまらなく無駄なことをしているように思う。他にやることがいくらでもあるのだ。
「まあ、のんびりしなさい」
 ロイの気分をわかりきったように、男が言った。
「どうせ停学期間中に終わる量ではないからな」
「……」
 恨みのこもった視線を向けてみたが、気づく様子もなかった。自分は自分で有意義に読書に励んでいる。実に羨ましかった。開いた本を覗いて見ようとも思ったが、なかなか上手く死角になっている。
 妙なところで完璧な男である。
 これは仕方がないと諦め、ロイはまた課題に向かった。さらさら手を動かす。まっすぐな線を延々と書き続けるようなものだった。考えるまでもなく答えが出る。繰り返し、繰り返し。
(錬金術で……)
 退屈のあまり、頭を悪巧みに使ってみる。インクを同じように整列させることは、きっと可能だろう。あまりにも同じ字になるだろうが、教師に気づかれるとも思えない。
 しかし禁止されている。ちらりと見た男を騙すのは大変そうだ。
(いや、案外ぬけてるかも)
 ばれた時が危険なのでやめておこう。自分から墓穴を掘ることはない。せっかくここまでやってきたのだから、平穏無事に停学を終わらせようと思う。
「おや」
「っ、なんですか」
 心を読まれたのかと焦る。男は慌てたロイに追求はせず、実にまったりと時計を指した。
「そろそろおやつの時間だろう。どれ、貰って来るとしようか」
 君は励みたまえ、と言い残し、男が部屋を出ていく。ほけほけ揺れる背中を見送ってから、ロイはふーっと息を吐いた。はたから見ればおそらく、あれはただの窓際親父というものだろう。
 しかし、部屋にいられるだけで気が詰まる。何かこう、妙なものが隣にいる、ような。
「……ィ」
 休暇はいつまでなのだろうか。夜に彼の部下が陳情に来たことを、とりあえずロイは知っている。まったく役目を果たせず、すごすごと帰っていったようだったが。
(あの人の部下は大変だろうな)
 他人事ながら同情してしまう。ある意味では鬼上官よりも、仕事への熱意は減っていくに違いない。
「ロイってばぁ……」
「あ? ……ユリア」
 思わずペンを取り落とした。部屋の扉を確認してから視線を戻す。彼女はベランダの窓から、こっそりとこちらに手を振ってきていた。
 姿は小さい。子供だからこそできたことだろう。年頃の娘がベランダにはい上がるなどは、とりあえず考えられないことだ。そのうちにころころとした彼女も、貞淑に足を閉じて歩くに違いない。
 そう思わせるところが、愛おしい。そんな彼女だった。
「何してるの」
 慌ててロイはベランダに駆け寄り、窓を開いてやった。下を見下ろしてみれば、なるほど、樋を伝ってきたものらしかった。
「あ、ロイ」
 小さな腕を絡めて、ぎゅう、と彼女がしがみつく。その頭を撫でてやりながら、ロイは心を鬼にして、厳しい表情をつくった。
「落ちたら危ないだろう?」
「だいじょうぶだよ。落ちないもん」
「落ちることもあるんだよ。ここから上がったらだめ」
「落ちないもん」
 彼女は唇を尖らせて言った。う、とロイはよろけた。かわいい。女性である時点でかわいくてたまらないというのに、子供なのだからもう負けるしかない。
 それにしても、だからこそ、こういうことはきちんと言っておこう。
「とにかく、次にやったら怒るからね?」
 ぽんっと頭を叩く。彼女はむっと頬を膨らませながら、嫌がるように首を竦めた。
「わかったね?」
 どのくらい聞いてくれるかはわからないが、ひとまず頷いてくれた。また頭を撫でてやってから問いかける。
「それで、何しにきたの」
「あそびに来たの」
「……ええっと」
 どうするかなあ、とロイは考えた。あとでね、とも言えるが、今日の課題が終わるかどうかは誰にもわからない。そして終わったあとにはデートがあるし、明日もだいたい同じだ。
 いくらロイでも、ない時間は作り出せない。
「いこ」
 彼女はロイの答えを待たず、裾を引っ張った。どうやら今からでなければ承知できないらしい。幼い少女のことで、思いつくなりやってきてしまったのだろう。
 それを断れないのは、彼女の両親が忙しいことを知っているからだ。寂しい思いをさせたくはない。小さかろうと女性は幸せになるべきなのだ。ロイは自分でできることなら、なんでもする気でいる。
 んー、とロイは課題のある机を見た。それから聞いてみる。
「どこ行くの?」
「お花摘み」
「ああ」
 うきうきしている彼女に、やはり行くかという気になる。彼女のお花摘みの現場は、崖の近くにある場所なのだ。一人で行かせたら危険だろう。
「わかった。行こうか」
 部屋の扉を見ながら、そわそわとロイは彼女を抱え上げた。出ていく場所はひとつしかない。
「だめなんじゃないの?」
「一人だと危ないんだよ」
 だから大丈夫、と抱きしめる。悪い大人になりそうだ、とロイは自分を少し省みた。



 すっかり陽が暮れてしまった。
 ロイは遠い目で屋敷の方角を見た。あとはもう怒られるしかない。きっとねちっこくとんでもない難題で虐められるのだろう。ちっとも怒ってないよ、という顔をされながら。
(またセクハラされるかも……)
 しんみり、ロイは膝を抱えてみた。さらさら生えた草が足をくすぐっている。ひとまず落ち込んでいても始まらない。
(気をつけないとな)
 探されているだろうか。ここまで時間が経っては、そうに違いなかった。男が探し始めるかはともかく、仲の良いメイド達が来るに違いない。ロイは申し訳なくなった。今も、心配をかけているかもしれない。
「そろそろ帰、」
 さすがに子供の体力もつきたらしく、彼女もさきほどまで草の上で転がっていた。呼びかけようとして気づく。
「ユリア?」
 風の冷たさばかりでなく、身体が冷えた。慌てて立ち上がる。暗くなる草原の中、小さな姿は見あたらなかった。
「どこ?」
 冷静に、と自分を落ち着けながら、最初に思いついた場所に向かう。まさか、という気もあった。けれど平坦な草原を見渡しても彼女はいない。ロイが黙り込んでいるので、先に帰ってしまったのかもしれない。
 そうであってくれ、とロイは思った。
「ぁ……」
 小さな枝にしがみつき、声も出せずにいる彼女を見た時には、考えもせずに手が伸びていた。今にもか弱い手は離れそうだったのだ。自分の安全を確保するよりも先に、手首を掴む。
 既に力つきようとしていた彼女は、腕の力を抜いた。幼い子供とはいえ、確かな重さがロイの手にかかる。ぐったりとした、けれどしっかり掴んだ彼女を見て、ロイはほっと息を吐いた。
 あとは引き上げるだけだ。腕が軋んだが、なんとかする自信はあった。自分が落ちても、彼女を助けるだろうと思った。そのために自分がいるのだ。
(大丈夫)
 ぐっと腕に力を込め、引き上げようとする。次の瞬間、足場が崩れた。
「……、う」
 呻き、顔をしかめながらロイは冷静に考えている。崩れたのはわずかな部分だけだった。身体がずり落ちたが、手を伸ばして崖を掴む。足がでっぱりを踏みつけた。不安定な状態だったが、決して彼女を離さない。
 下を見れば目がくらむのはわかっていた。誘惑をうち切って上を見る。確かめなくても間違いない。ここから落ちては助からない。
(最悪、は)
 抱き込んででも彼女を助けようと思う。けれど何より上がることだ。じりじり、陽が暮れていく。置き去りにされた恐ろしさがあった。誰の助けを望んでもいなかったが、見捨てられたようだった。
 弱気になりそうな自分を叱咤する。こんな場所に、彼女を連れてきてはいけなかった。助かったあとのことだ。良く言い聞かせなければならない。
(いや、もう)
 怖がって来たがらないだろう。大丈夫だ。両手がふさがっていて錬成陣が書けない。自力で上がるしかないのだ。
 わずかに、身体が持ち上げられた。すぐにがくりと揺れる。力がだんだんと失われていった。だめかもしれない、と一瞬だけ思った。諦めずに力を込める。上から誰かがのぞき込んだ。
「え……」
 暗い中でわからない。夕日が、わずかに男を照らしていた。
「あ」
 ブラッドレイだ。探しにきたに違いない。泣き出しそうに安堵してから、その瞳にロイは目を見開いた。
 震えるほど恐ろしくなったのは、わかってしまったからだ。何を考えているのか。ひどく冷たい瞳だった。踏みにじられそうに冷たい、見下す瞳だった。
 ロイはわかっている。
 おそらく彼が自分を見捨てないだろうことは、確実に理解していた。そんな馬鹿なことをするはずがない。投資がこれ以上ない無駄と変わるだろう。そんなことはしない。男は、そんなことはしないのだ。
 けれどその瞳の中に宿っている、冷たさは。
(自業自得だ)
 額から汗が伝った。ロイが彼女に教えようとしたのと同じ、そこには、そうしなければいけない怒りが見せつけられていた。ロイには理解できたのだ。男はロイに思い知らせるために。
 彼女を見捨てることをためらわないだろう。
(だから、待ってる)
 助けることもせずに待っているのだ。ロイの胸に後悔の印を焼き付けるような、そんな瞬間を。そうしてロイが成長していくさまを望んでいる。そう、投資が完全に回収されるように。
 ロイは唇を噛んだ。そんなことをさせるわけにはいかない。
 おそらく一瞬のことだっただろう。男もわずかにためらったのだ。だからロイはそこにつけこんだ。静かに見上げる。彼女を支える手に力を込めた。この手を離したならば、二度と自分が戻ることはあり得ないと、男を脅したのだ。
 それはただの、視線の通過だった。またたきするほどの時間だった。
 男が唇を歪めた。