やっぱり失敗だった、とロイは思った。
 どこでも転がりこむところはあるが、捜索されては面倒だ、と男の屋敷に戻ったのだ。主人の部屋に挨拶に訪れれば、にこにこと笑った男の台詞がこうだ。
「快挙だな」
 満足そうに頷いている。本気でそう思っているようだった。かなり。確実に。
「幼年学校を色恋沙汰で停学とは」
「まあ、そんなわけなのですみません」
 ロイは疲れた声でさっさと遮った。別に、ロイも殊勝に反省しているわけではない。けれど褒め称えられてもどうしろというのだ。なんだか悪い道に誘導されてそうな自分が心配である。
「十日くらいここで謹慎させてください、それじゃ」
「待ちたまえ」
 軽い制止だったが、一瞬だけ天井を見てから振り返った。聞かなかった振りをしても何もないのではないだろうか。けれども無視できないのが、刷り込まれた性質というものだ。この男とは、さほど長く過ごしたわけでもないというのに。
 男はゆっくりと、手に持った本を棚に戻した。
「……なんでしょう」
「学校の方からよく言われていてな。錬金術は禁止だそうだ」
「はあ」
 ぐったりと溜息をつく。そんなもん禁止してどうするんだ、とは思うが、罰した方もそのくらいしなければ収まらなかったのだろう。なにしろ相手は優秀な上級生で、おそらく、ロイ以上に休学を余儀なくされている。立ち上がれもしないだろう。
 少しだけ彼に思いを馳せたあとで、ふと、気づいた。
「学校の方から?」
 問いかけると男が笑ったのは、これは良く気づいた、ということなのだろう。子供のかわいらしい悪戯、そのくらいの気分なのかもしれない。馬鹿みたいに騒ぐ教師もどうかと思ったが、これもどうだろう。
「君の『ご家族』経由でね」
 つい、とロイは眉を上げた。まったく叱らないつもりではないらしい。わざわざロイの嫌がる言い方をしている。
 これもただの、からかいの延長なのかもしれないが。とにかくわからない男だった。
「……あの家には、あなたが関わっていることを?」
「ああ、偽名を使っても良かったが、どうも君に未練があるようだったからね。私の名前は明かしておいたよ」
「権力には弱いんだ」
 苦笑して呟くと、男は宥めるような笑顔を浮かべた。まさしく子供扱いされているようで、あまり気分は良くない。大人だ、と主張するほど強気に出られないだけだ。
「そう嫌うことはないだろうに」
「嫌ってるわけじゃない」
 すぐにむきになる自分に、ロイはちょっとうんざりした。これでは子供と言われても仕方がない。しかし立場の違いというものがある。こちらは弱みを見せずにいられなかったのだから。
 それでも笑っていられてこそ、ということだろうか。
(この人なら)
 想像がつかなかった。どうせ、なんでも、いつも笑っている気がする。そういうところが空恐ろしい。同時にそれは、ひとつでも弱味を見てしまえば、すぐに潰れそうな幻想だとも思う。
(そうしたら、用無しかな?)
 などという思考を、罪悪感無しに行える。けれど、そんなところが好きかもしれない。追い越すために存在しているような男だ。
「彼らは……、そうだな、多少」
 顎に手をあて、考え込むようにしてから言った。
「制約が多いだけだろう。要するに善人だ。思慮が浅いだけで悪気はない。正しさというのは、どこでも一定の形式として存在してる。弊害だが、メリットデメリットの問題だな」
 滑るように出た言葉に、ロイは唖然とまばたきをした。意味が理解できなかったというより、唐突に妙な話し方をされたからだ。男は「おや」と少し困ったように笑った。
「演説が舌に着いていけない。そのうちラジオになりそうだ」
「……演説?」
「多少なりとも威厳が必要だと言うんだがなあ」
 ロイはしばらく男を見てから「それはそうかも」と頷いた。妙な威圧感のある存在だったが、それはどちらかというと戦闘的なものだ。威厳というのは、ちょっとばかりずれたものだろう。
 だいたい普段は、おちゃらけたただの親父である。背筋は伸びているが。
「おかげで身体が鈍っていかんよ」
「はあ」
「そんな時に君が帰ってくるというのでね、休暇を取ってきた」
「……休暇?」
 それはすぐに頭に入り、ロイは唇をひきつらせた。話が違う、というものだ。自宅謹慎を幸い、研究に励もうと思っていたというのに。この男がいるのでは、有効な時間が半分ほどになりかねない。
 なんだかんだで丸め込まれて、抗えもしないのを知っている。危機感に、ロイの頭はくるくる回った。ただでさえ、ここに帰るとデートで時間が潰れるのだ。
「あの。真面目に仕事しないとまずいんじゃ」
 良く考えると、停学してる学生の言うことでもない気がした。
「何、仕事自体は暇だ。優秀な部下がすべてやってしまってな」
 相手は相手で、残念そうなのか嬉しそうなのかわからない。
「やはり階級がひとつ上がったせいだろうかな? まあ、これより上がれば、逆に忙しくなりそうだがね」
「でも」
「なんだね、自宅謹慎中のロイ・マスタング君」
「は」
 男の楽しげな視線に、ロイは目眩を感じた。これはつまり。
「もちろん私は保護者だからね。君を監督する義務があるわけだ」
 停学幸いの楽しい日々は、どうやらやってきそうにない。
「ひとまずマスタング君。恋敵と一戦などというのは全く君らしいことだが。やはり、一般人に錬金術はいかがなものかと思うね」
 笑った男が近づいて腰をかがめ、ぽん、とロイの頭に手を置いた。反応を明らかに面白がっている。そのまま蹴飛ばしてやりたくなって、堪えた。どうせ打撃は与えられない。大人しくしていたほうが吉である。
 それよりもロイは静かに息をし、正しい言葉を考えた。
「女性が侮辱されたのを見て、黙ってもいられません」
「ふむ?」
 伺う視線がのぞき込み、ロイは思わず息を止めそうになる。呼吸。ほとんど腹を引き上げるようにした。
「確かに、君らしいな」
 思わせぶりは言葉だった。何か気づいただろうか。
 けれど追求してはいけない。藪をつつくようなことだ。教師のいない学内で起こったことは、いくら軍の上層部でも知りようがないのだから。