すれ違った彼を引きとめた。ロイに言えたことではないが、そんな地位でそこらをうろついているのがいけない。使い走りにしても問題ないだろう。 「ハボック」 「あれ、大佐。これからデートっすか?」 誰も彼もがどうしてそう言うのだろう。実際、デートである時は余裕なのだが。そうでないときは案外鬱陶しい。 否定も肯定もせず、要件だけを告げることにする。 「東部通信」 「はあ?」 「の誰かに、頼まれものは今探している、と伝えてくれ」 言う必要もないようなことだったが、中尉を通しての話だ。まかり間違うと、帰宅のついでに取りに来るかもしれない。仕事のことになると彼女はかなり鬼だ。……いや、勤勉だ。 「……いいですけどね」 ハボックは肩を竦めた。このくらいで怒るような相手なら、だいたいロイの傍にはいられない。完全に任せてしまって、それじゃ、と手をあげる。 「っ、くしゅ!」 そのまま、その手を口にあてた。くしゃみと同時に頭がくらくらする。溜息をついて額を叩いた。 「風邪っすか?」 「ああ、ちょっとな」 思い出すと腹立たしくもある。いくらなんでも、毛布くらいかけてくれたっていいだろう。素っ裸で目覚め、しかも隣にぬくぬくしているヒューズがいた時には、もう一度殺そうかと思ったものだ。 多少の暖房が残っていたために、凍死はとりあえず免れたが。 「気をつけてくださいよ。あんたがいないと中尉が」 「中尉が?」 「仕事がなくて暇だ」 「……意味深だな」 「意味深っす」 実におおらかに頷いて、ああ、とハボックは続けた。 「そういえばこないだ、大佐の家の傍を通ったんすけど」 「あ?」 ひやりとした。こないだ、とはいつのことだろうか。ヒューズが戻ってきたあとのことなら、危ういところだっただろう。 誰かが尋ねてきた時のことを、よく言い聞かせなくてはならない。まるで子供が家にいるようだ。 「いやに慌てた様子で、庭にいましたよ」 「こないだ?」 「五日前、くらいっすかね?」 「あ、」 思わず口元に手をあてた。庭に出たヒューズを連れ戻したのが、そのくらいだったように思う。ロイは体温が下がるのを感じたが、すぐに思考を巡らせる。見られていればこんな反応ではすまない。 まだ探し回っていた、ところなのだ。 「……ペットを探してたんだ」 おかしな態度にならないよう笑ってみせる。彼の姿を、見られていなければ問題はない。誰もそんなことを思いつきはしないだろう。 「ああ、そうなんすか。なんかまるで、誰かを引っ張ってるみたいで」 息を止めた。表情は変えず、けれど視線が揺らいだ。ハボックは横柄なようでいて、ロイを信じきっている。疑うようなことはない。あったとしても、多少の悪戯くらいのものだ。 「……誰かを?」 「誰もいなかったんすけど。あれは、なんか錬金術の修行か何かで?」 どんな返事をしたのか、よく覚えていない。気がついた時には自宅で大きな手の中にいた。足元が柔らかいから、きっとソファの上なのだろう。 彼はロイを脅かす元凶で、また安堵を与えられる人間だった。他の誰かではいけない。魂に刻まれたような罪の記憶を、共有できるのは彼だけだった。確かにロイはヒューズを取り戻すために、いくばくかの犠牲を払った。 胸に頭を押しつけて苦笑した。あまりにも軽い犠牲だ。耐えられないはずがない。幸いな、ことだ。 「ロイ?」 笑った震えに気づいたのだろう。ヒューズが顔を覗いてきている。似合わない、真面目すぎる顔だ。そうすると渋く見えなくもないので、どうにも嫌いなのだ。 「落ちついたか?」 「落ちつくも何も」 静かな視線を向けて、頬をつねってやった。すると情けない親馬鹿の顔になる。これでいいのだ。 ロイは意識して表情を緩め、笑った。 「最初から動揺してないだろ」 「……ま、そう言うならそれでいーけどな」 実に捨てたようなことを言って、よいしょ、と膝に抱きなおされた。とんでもない場所にいるのだと気づいて、ロイは近い身体を押しかえす。子持ちの男に子供扱いされるのでは、まったく洒落にならない。 「ところで私はなんで、まだ鞄を持ってるんだ?」 「……」 ヒューズは呆れた顔をして、ロイの手から鞄を外させた。ぱた、と軽い音がする。ろくなものが入っていないのだ。後生大事に持っているものではない。 まだ硬い手をのばす。きりきりと節が痛むようだった。ヒューズの手が添えられ、丁寧にのばされていく。ロイは嫌がりもせず、それをぼんやりと見ていた。固まった手。彼の遺体もまた、硬直して一ミリも動かなかった。 「ロイ?」 どこかわからない場所に視線を飛ばす。何をこんなにも動揺しているのだろう。ハボックには見られなかったのだ。それでいい。何も問題はないだろうに。あの言葉に、ロイは安堵よりも不安を覚えていた。 (不安) また、失いそうだった。 「いや……、」 それでも縋りつくことはしない。ここにいる。暖かい手が触れ、身体もまた触れている。声は耳に届き、どこまでも扱い辛い男だ。 肩の力を抜く。 「ヒューズ」 呼びかけるだけで理解された。そのくらい長い付き合いなのだ。そのくらいに唇を重ねてきた。意味はわからなかった。ただ、何もないのでは寂しいだろうと思えただけだった。 一時の女性にもするように。いつでも目の前の人を愛せなければ、寂しくなるばかりなのだ。嘘ではない。 言うならば錯覚、だ。 「何かあったのか?」 耳元で問いかけられながら、ロイは腰を上げていた。ずるずると軍服を脱いでいく。堅苦しいそれはいつでも、役に立ったためしがない。 「もう少し、柔らかい布でつくるべきなんだ」 下らない返答をよこしたロイに、ヒューズは溜息と共に首を振った。皮肉らしい。近くにある頬に噛みついた。犬歯に圧力がかかって、ロイはそれだけで自分がとろけたことに気づいた。 変なものだ。こんな性癖を知られては問題だ。あるいは中尉あたりなら、一言、冷たい言葉を落とすだけだろうが。 「いや、堅い方がいい。規律が必要なんだ、悪ガキには」 ヒューズの言葉に睨みを返したが、どうにも笑えた。とろけていても、情熱的でなければ、情感的でもない。威勢よく裸になって交わす熱は、ひたすらに気持ちがよかった。暗くなりはじめ、そろそろ明かりの必要な部屋で。 思い出すのは、言葉の通りに学生時代のことだった。ちょっとしたスリルと罪悪感と、とても近い距離を感じていた。ロイは懐かしさに目を細める。 「なら、今のおまえは」 とりあえずに身につけたような、ヒューズのシャツを掴む。こうして柔らかい姿をしている時には。 「悪ガキじゃなく」 大事な家庭を持った男なのだろう。 そう言いかけた口がまた、ふさがれた。それをロイは幸いに思った。そうされたかったのだ。できれば口にしたくなかった。 扱い辛いくせ、自分のことを理解しすぎている男を、ロイはじっと見上げていた。その向こうに天井があった。とても狭い部屋に思えた。箱の中でぎゅうぎゅうになって、悪友と抱き合っているのだ。 あるいはただの共犯者なのか。それにしては優しい手だった。冗談のようだった。顔を見合わせると笑ったから、本当にそうだったらしい。 ソファの上で目を覚ました。やはり、寝室に運ぶような繊細さはないらしい。これは風邪も悪化だ、と思いながら、ロイは床に足を下ろす。 ごそごそと動いている姿が見えた。本棚を探っているらしい。 「ヒューズ?」 「お、起きたか」 「起きたか、じゃないだろ。おまえな、せめて起こせ。風邪ひきの親友を裸で寝させるか?」 「良く寝てたからなあ。もーしばらく待ってみようと、な」 言い訳になっていないが。飄々と言われたのでは絡めない。諦めて、すっ飛ばしたシャツだけを羽織った。気をつけて体重をかけながら、ヒューズの後ろに向かう。覗きこめばそれほど作業は進んでいない。眠っていたのも少しのことだろう。 「何の気まぐれだ」 「ん?」 「探すとか言って、まだ探してなかったくせに」 「ああ、昼は寝てた」 「寝すぎるとボケるぞ」 「出歩くよりはいいだろう」 その隣に腰を下ろし、本棚の一番下に目を通す。するとヒューズが「なんか飲むか?」と立ちあがった。アルバムを探す作業はしたくないらしい。それほど本嫌いでもないだろうに。 だったら最初からするな、と言いたいのを堪え、茶を頼んだ。 「んじゃ、ちーっと待ってな」 冗談じみた唇を額に落としていった。む、と近づいた頬をひっぱたく。ヒューズはさらりとかわして、けらけら笑いながら部屋を出ていった。 「……ったく」 愚痴ってはみたが、嫌な気もしないのが敗因だろう。 少し冷たくなった部屋を一度だけ見まわして、ロイは本棚を探り出した。それほど多くはない。ただ、貴重な専門書や記録書の類が多いので、背だけですぐにわかるようにはしていない。 ひとつひとつ、あやしいものを開いていく。もう一日も遅れたら、中尉に何を言われるかわからない。そしてだいたい、皆は中尉の味方になるのだ。理不尽だ。 そもそも何故、こんなものが必要なのだ。規律がたるんでいる。いくらなんでもアットホームすぎるのではないか。つくったのは自分らしいので、責任を取るしかないが。 (いや、中尉の子供の頃の写真というのは……これは悪くもないか? というか、かなり興味深い。昔からあんな……だったんだろうか) やや無駄なことを考えつつ、本を開く。項がはがれるものもあって気を使う。手書きの専門書の間に、見なれた文字を見つけた。 「ん?」 ロイ自身のものだ。それほど古びておらず、不思議に思った。古いアルバムを求めているのだから、古い棚を探している。資料の並びに関してそう几帳面でもないが、あまりにも浮きすぎていた。 よほど急ぎのことがあったのだろうか。 (覚えてない、な) どうやら日記らしい。誰に見せるでもない書き方で、ぐちゃぐちゃと綴ってある。インクの色から考えて最近のものだろうに、まったく記憶になかった。不審に思い、読み進める。すぐに顔を顰めた。 (あの頃か) 覚えていないはずだ。 ヒューズが死んだ頃には本当に、どうかしていたのだ。何を考え、何をやっていたのか。ここにその記録がある。 「読めたものじゃない、な」 文字はとても乱雑に続いている。顔を顰め、呟きの音に出して読んだ。 「こ、れ……間違って、いる……もしれない。そ……死んだ……間違い」 乱筆の上、ぐちゃぐちゃと塗りつぶされて言葉が飛んでしまっている。顔を顰めながら解読する。 「……しか、し。人として、当然の願望……進歩……誰、だ」 ふと、言葉を止めた。 (そうだ) これがヒューズの死んだあとの日記なら。錬成を起こすまでの記録と、理論についても記述されているかもしれない。 こく、と喉を鳴らした。 (知らないべきか?) 今すぐ、この本を閉じるべきだ。そして燃やしてしまおう。そうしたいと頭の端で思いながら、どうしても指先は項をめくった。視線は文字を読み進む。 『こ に、よって 誰も害をうけない』 1文の最後が明確に綴られていた。確信しているのだ。ロイは首筋のあたりに冷たさを感じた。耐えられない、気持ちの悪くなる温度だ。 (このまま) 本を閉じるのだ。いや、遅すぎる。知ってはいけない気がした。心は拒否しているのに、どうしても身体は行動していた。 (どうして) ヒューズは、家族思いこの上ない男は、何故たったのひとつも妻子に連絡を取らなかったか。ロイの言葉に完全に従っていたのか。 『人体錬成を成功させ よりずっと、簡単で』 気は利かなくとも親友である男が、どうしてロイに風邪をひかせたのか。 『間違いのないやり方がある』 ロイは目を閉じたかったが、既に文字は記憶の中にあった。喉が乾いている。ヒューズが戻ってこないかと、ロイはそれを願った。一瞬だけのことだった。 あとは、それを考えたくもなかった。どうしてこんなことになったのか。なぜハボックの言葉に、あれほど不安を感じたのか。 『人は一人では生きていけない。誰かといて、認識されるのだ。いったい人の命というのは、どこに生きているものだろう? 思うのだ。 少な とも 私は。 この中、に 生き』 掻き消した文字はそこまでしか読み取れなかった。ロイは本を閉じた。アルバムを探さなければならない。中尉に怒られてしまうのだ。他の本に集中していては、まったく恐怖が近づくではないか。 この家に取りにこられるのも困る。 「ヒューズ?」 彼ばかりが逃げてしまうのは卑怯なことだ。いらついた声で呼ぶと、すぐに顔を覗かせた。そこで時間を潰していたに違いない。酷い話だ。しかも面倒そうな顔をしている。 「手伝え」 命令する言葉で締めくくると、思いきり嫌そうに近づいてきた。二人でやれば、夕食までには見つかるだろう。 何気なく手に持ったままだった本を、棚に戻した。似たような専門書ばかり、おまけに背表紙はつけられていないので、そうするともう、何の本かも思い出せない。アルバムでないのなら、とりあえず今は必要ないのだが。 |