足が重い。
(……不本意だ)
 機械鎧ばかりの重さだけでもなく、とにかく気分が重かった。片手に抱えた包みもまた重い。なんだってこんなものを抱えて、あのクソ腹黒無能な大佐の元に行かなければならないのだろう。
 もちろんそこには理由がある。しかし、考えたくもないエドとしては、ひたすら不本意だ、と呟くのみにしたかった。思い出すだけで、なんか色々大変だ。そのまま頭を抱えて廊下でうずくまりそうだった。
(そしたら)
 きっと親切な人が「大丈夫、ボク?」とか言ってくれて、立ち直れないほど廊下に穴をあけてしまうのだ。錬金術で直せるとはいえ、破壊はいけない。そのくらいの理性はあった。
 なんとか足を励まして進む。頭痛と胸の動機が激しくなった。これは強敵だ。あれだ、ロイの心理攻撃に違いない。
 負けねえ、とエドは呟いた。幾多の危機を乗り越えた自分だ。無能大佐がどれほどのものだろう。
「……ふ」
 意味もなく笑って、エドは扉に手をかけた。ノックもせず、声もかけずに開く。しかしそれは、どちらかというとエドの不幸に繋がった。
「あら」
「おや」
 またかよ、と口の中で呟く。がっくりと頭を落としたせいで、女の顔はわからなかった。すらりとした足が隣を通りすぎ「じゃあ」とか「ボクもね」とか笑われたような気がする。
 とにかく顔をあげた時には、にやついた顔のロイがいたわけだ。せめて残念そうにしてくれ、とエドは思った。
「いや、悪かったな」
 とてもにこやかにロイが言う。これで悪いと思っているのなら、全世界は平和だと思いたくなるような顔だった。
「……あんた、仕事してんのか?」
「ん? そりゃあ、たまには」
 してないと事務が滞るだろう、と今度は普通の顔で言った。なんだかもうどうでもよくなってきて、エドは後ろ手に扉を閉める。へろへろと近づいてから、机に包みを置いた。
「返す」
 ロイは不思議そうに首を傾げた。すると妙にあどけない。きっとこういうところが「かわいい人ッ」とか言われているのだろう。想像すると実にグロッキーな気分になった。
(なんでこの人のプライベート見なきゃなんねえんだろ……)
 前といい今回といい、物凄く嫌な縁があるような気がした。考えるだけで卒倒ものだ。とにかく頭に血が上る。だいたい、そういうシーンだけで刺激が強いのだ。もう、たまらなくなるくらいで。
「気にいらなかったかな?」
 実にあどけない顔でロイが聞いて来る。なんだか暑い部屋だな、とエドは思った。目の前の相手がいけないのだ。ロイの顔を見ていると、前のことやら今回のことやら、ぐちゃぐちゃに目の前に思い出される。
 小さな混乱があり、考えまい、とエドは思った。ロイがどんな変態プレイをしていようと、自分の知ったことではない。そんな場合ではない、はずである。
 しかし頭にぐるぐる回る想像はなんだろう。自分はどうしてしまったのか、とエドは情けなく思った。これを解決するために、ロイの元に来ざるを得なくなったのだ。他に相談する相手もなし、だいたい既にロイに知られているのだから、他に回すより彼に聞くのが一番だろう。
 色々と落ちつかないところはあったが、エドは頭でなんとか納得した。つまりは、こうするしかないのだ。仕方ないのだ。
「一応、私も見たんだがなー。内容的にはなかなかエクセレントで、無修正だから勉強になるし」
 エドが自分に言い聞かせていると、ロイは勝手にぶつぶつ呟いている。
「……あのな」
「それは確かに、本物には負けるが。青少年にはこんなものじゃないか?」
 包みからそれを取り出し、ひらひらめくっている。そういうことでは間抜けな顔にはならないようだ。時々情けなくはあるが、助平ではない顔だ。実は助平だと思うが。
 まったく真面目な男の顔をして、ロイがにこりと言った。
「勉強に、ならなかったか?」
 実はなった。
 ものすごくなった。
(そのせいで)
 エドはカルチャーショックで熱を出した。出しつつ、ああ、そういうことなんだ、と納得したりした。内容はどうあれ、学ぶということは尊い。知識欲を満足させたあとで、けれど虚しさに遠い目をしたりして。そして問題だったのは。
 それでもやっぱり、解決のつかないことがあったりしたことだ。未だに、思い出すと、床を悶絶したくなる。これはなんとかしなければ。戦闘中にそんなことになったどうする。いけないいけないと思えば思うほど、考えてしまいそうだ。不利益な因子は取り除かなければならない。
 エドは真面目にそう思った。
「……なったけど」
「ふむ。それでも、もやもやはなくならない、と」
 愉快そうにロイが頷いた。図星だ。が、頷いてやる心の余裕はなかった。小さく「るせえ」と呟く。とにかくそこら中が暑くなった。
「まあ、わからないでもない。錬金術師なら好奇心の赴くままに。つまりは計算のあとに実験。実験のあとに本番」
「本番?」
 すぐに先日の光景を思い出し、エドはくらりとした。何しろそうだと思ってみると、実に刺激的な光景だった。眩暈と視界の歪みで、エドはしばらく立ち直れなかった。
「おい?」
 すると、いつの間にか近づいたロイが背中を叩く。一瞬だけ和らいだ緊張が、すぐに強く襲った。近づいた身体に動揺したのだ。あんまりだ、とエドは思った。
 あんまりな条件反射だ。なんだって自分がこの男に緊張しなければならないのだろう。
「無事か、鋼の?」
 エドはなんとか自分を取り戻し、ロイの手を払った。
「……無事」
「うん?」
 まあ、ならいいんだが。あっさりとロイはそう言って、顎に手をあてた。
「そういうわけで、鋼のには実戦が必要だという結論が出た。しかし、だからといってそこまで世話してやるのは教育上よろしくないだろう。男なら勝ち取れ、鋼の」
 がし。肩を掴まれた。エドはじっと目の前のロイを見て、正気を推し量った。
(少なくとも)
 楽しんでいることは確かだ。
「いや、だから俺はな」
 頭を押さえて言い出す。どうも何を言っても聞いてくれないような気がずっとしているのだが。これは自分のフィールドではない。そういう感覚が、エドを珍しく大人しくさせていたのである。
 しかし、これ以上黙っていてもろくなことになりそうにない。
「つまり、そういうことがしたいんじゃなくて」
「したいんじゃない?」
 ロイの表情は「それはどっかおかしいんじゃないか?」というものだった。ぶっちり切れそうになるのを留める。悪気はないのだ。ぶちのめしてたら話も進まない。
「だから、あんたがこの前」
「この前?」
「……ってたのを思い出すと、平静でいられなくて、だなっ」
 妙に語尾をあげたのは、照れが入ったためだ。ここで照れずにどうするよ、という話題である。もうどうしていいのかわからない。
 くらくらする視界の中、ロイに視線をあわせて言う。じわっと揺れたので、もしかすると目に涙が溜まっているかもしれない。しかしこれは仕方ない。仕方ない、とまたエドは自分に言い聞かせた。勝手が掴めない。
 暑いのだ。熱の時に目が潤むのと一緒だ。相手が吹き出しそうになってるなんて、それは気のせいだ。そうに違いない。
「それをどーしたらいい、って聞いてんだろ」
「聞いたか?」
 飄々とロイが答えた。エドは即答しようとして迷う。そういえば、あんまり言ってない気もした。
「まあ、それはどうでもいい」
 なんとか強気な言葉を吐き、呼吸した。まだ頭の端に、この男と絡み合った女の画像が残っていた。何しろ衝撃的すぎたのだ。細部に渡って思い出せてしまう、この記憶力も恨むべきだろうか。
「とにかく、何とかしろ。責任とれ」
 もう開き直るしかない気分で詰め寄った。ロイがまたきょとんとした顔をして、それが憎らしい。なんでこんなことで、また思い出しているのだろう。体温が上がっている。
「ああ、つまり」
 ふむふむと頷いてロイが言う。
「あの人に惚れたってことか」
「はあ?」
「だから、あの時の女性だろう」
 思い出してみる。
「……足と胸しか見えなかった」
「それでもまあ、そういうことはあるだろう」
 あっさりとロイが頷く。そうなのか、そうなのか?と思いつつ、エドは否定できなかった。とにかく、このことについてはロイが上手だ。知識を得たばかりのエドに、自信を持って言えることなどない。
「紹介はしても構わないが……、一応、こちらの対面というものもある。鋼の」
「え」
「とりあえず紳士的態度を身につけてからだ。しばらく私と一緒に勉強しような。それからあたって砕けろ、だ」
 にこやかに楽しげに。そう告げるロイに、エドはやっぱり何も言えなかった。しかし「何か違うんじゃあ……」と頭の端が言っている。あんまりなことに熱が一瞬下がったくらいだった。とにかく。
 何かとてつもない間違いがあったような気がする。しかし。
 エドはロイの顔をじっと見た。やはり、連鎖的にまた暑くなった。とにかくこれをどうにかしなければならない。多少の違和感には目をつぶろう、とエドは思った。