若いなあ、とロイは思っていた。 静かに書類を読むふりで、エドに意識を向けている。彼はロイの机の前をうろうろして、視線を向けては、また逸らしていた。 (そんなに刺激が強かったか?) 理由はわかっている。ロイに非があるといえばそうだ。わざとやったわけではないのだが。先日、エドを呼びつけたにもかかわらず、たまたま家にやってきた女性と、まあ、そういうことになってしまったわけだ。 エドがやってくるだろうと思っていたので、鍵もかけず。存外、几帳面にも時間通りにやってきたエドは、しっかりばっちりそれを見たのだろう。 (15歳か……私はその頃には) さっぱり女性に困ることはなかった。しかし、相手はエドワードだ。色々と家庭の事情もあったようだし、田舎の生まれ、都会に出たといっても旅を続けてばかりだ。そういうこと、に関わる機会はなかったのだろう。 (ま、軽蔑されるより良いか。面倒だからな) それほど潔癖ではないらしい。エドはどちらかというと好奇心でそわそわしているようだ。しばらく時間をおいてみたが、聞いて来る様子はない。ロイは書類から顔をあげた。 「鋼の」 「、何」 やや動揺してから、そんな自分に顔を顰めている。彼の表情は実にわかりやすい。ロイは笑みを押し殺した。 「何、ってなあ。推薦状。これが欲しかったんだろう」 「あ、サンキュ」 目の前でひらひらさせてやると、ばし、と両手で挟み取った。猫のようだ。手を離してやるふりをして、もう一度上げて見た。 「な」 「ほれ」 「このッ」 ジャンプして紙を掴もうとする。それにひょいひょいと紙を上下させる。あわせてぴょんぴょんと跳ねるエドに満足して、手を離してやった。 「くっ」 ばし、と書類が掴まれる。わしづかみだ。 ぜーはー、と息を乱しながら、やったぜ、とエドは呟いたようだった。かわいいもんである。返すまいと一歩引いたのまでを見て、子供だなあ、と微笑ましく思った。 構っている自分も子供らしい、とは思わない。 「あまり皺をつけるなよ。胡散臭く思われる」 「誰のせいだ……」 「さあ」 しれっと答え、ロイは椅子に座りなおした。すると、エドは戸惑ったような顔をして出ていかない。からかってもいいということか、とロイは納得することにした。 「それで鋼の。先日は」 「うっ」 いきなりうめいた。実にわかりやすい。ロイは案じたような顔をつくってみた。 「どうした? 胸が痛いのか?」 「……いや。なんでもない」 「身体は大事にしたほうがいいぞ。まあ、研究だけでも、君なら国家錬金術師としてやっていけるとは思うが」 「病気じゃねえよ」 「ああ、注射が怖いというのは、年齢を考えればわからんでもないが」 「おいこら」 さすがにからかわれているのがわかったのだろう。エドが深い溜息をつく。残念、とロイは思った。罪もなくこれをからかっているのは、実に楽しいことである。 「先日は悪かったね」 本題を言い出すと、今度はうめきはしなかった。ただ苦い顔をしてロイを見ている。どう言っていいのかわからないのだろう。こういうところが純情である。 「急に予定が入ったんだ。気を使ってくれたんだろうが」 「……そういうつもりじゃない」 「話にならないと思ったのかな」 「まあ、そう」 さりげなさを装っているが、頬は赤い。自分もこんな時代があっただろうか、とロイは遠く思った。 「……あのさ」 「ん?」 呼びかけに答える。やや重い言葉に聞こえたので、仕事の話だろうか。 「こないだのは」 かと思ったが、まだその話らしい。若人の好奇心はやはり、そのへんに使うべきなのだ。ロイは好ましくそう思った。書庫にこもっているよりは、ずっと健全なことだ。 「こないだの?」 にこりと聞いてみる。 「む」 「……む?」 「むりやり」 「むりやり?」 小さな声だ。ロイは腰を浮かして耳を近づけた。勝気な少年の、こんなところを見るのは初めてだ。いっそ弟と入れ替わったんじゃないかと思ったが、あの弟は弟で、兄より知っていそうな気がした。 というか、あり得ないし。これはエドワード・エルリックに違いない。だからこそ面白いのだ。 「……ってたわけじゃないよな?」 「ってた?」 エドはまた言葉に迷って視線をうろつかせている。ああ、としばらくしてからロイは笑った。 「もちろん、そんなことはしない」 子供のことである。女性の悲鳴を、そういう意味にとったのだろう。そういえば先日の女性は、なかなか良いソプラノだった、とロイは思い出した。 「けどなんで」 好奇心と躊躇いが混じったような声で、エドが言う。 「うん?」 ロイは実に辛抱強く聞いた。これが仕事のことであれば、非効率な話はすぐにぶちきるのだが。こんな面白いことなら、多少の焦らしがあってもいい。女性を口説く時のように思った。 「あんなかっこ、」 「格好?」 ロイは首を傾げた。 (こないだは、確か) そう特殊な格好はしていないはずだ。基本的にロイは女性の顔を見てするのが好きなので、体位も限られてくる。 「だから、足を」 不審な顔のロイに、エドがそわそわと続けた。居辛くなっているようだったが、逃亡は本意ではないらしい。 「足を?」 特にいじめる気もなく、ロイは聞いた。すると睨む視線が返ってくる。 「だからあんなに!」 「あんなに?」 「折れるくらい!」 「折れるくらい?」 「……上げさせて何してたんだよ」 「何って」 足を開かせないと辛い。 「私はどうも、後ろからするより……ん?」 何か根本的な齟齬があったような気がして、ロイはしげしげとエドを見た。彼は顔を赤くしながらも、好奇心一杯にロイを見ている。視線を捕まえると、すっと逃げられた。 「何って」 ロイが再び呟くと、エドがそわそわしながら言った。 「だから、なんだよ。は……裸見るのにあんな格好、」 「へえ」 遮って、ロイは言った。 「へえ、へえ」 顎に手をあてて嫌味ったらしく言う。わざとそうしたのではなく、そうなったのだ。これはからかわずにいられるか。まさかここまで純情だとは。 「へええええ」 「……なんだよ」 「ふうん」 「なんだよつってんだよ」 からかわれるのにも耐性ができたらしい。平静な言葉が返るが、頬が赤いのでは迫力も何もない。 「いやあ。はは」 「気色悪ぃ」 「ははははははは。若いな。貴重品だな。歴史の生き証人だ。病院ものだ、たしかに」 「病院って」 むっとした顔の中に、小さな不安があった。それをちらりと見て、さすがにロイは笑うのをやめる。そろそろ頬が痛くなっていた。 「大丈夫大丈夫、ちょっとこっち、来なさい」 椅子に座ったままで手招きする。も、来そうにないことを思い出して、自分から行くことにした。立ちあがって近づくと、一歩引いた。けれど逃げない。 「鋼の」 「……」 答えはない。なんだよ、という強気の視線だけが来た。けれどやはり、瞳も赤い。 「調子悪いんだろう?」 にこにこと見下ろしながら聞く。エドはもぞりと足を動かした。うろうろしていたのは、つまり。 「こないだのアレを見てから」 それにしても少年に強い刺激を与えられるというのはいいものである。驚かれもしないのでは、自分の技量に疑問を持ってしまうじゃないか。 だからロイは非常に気分がいい。 「このへんが」 ぺむ、と腰に手を触れてやると、勢い良く左手が飛んできた。寸前で避けたが、風を切る音が至近距離で聞こえた。 ちょっと唖然とする。 「どこ触ってんだ!」 「……どこを触ろうが殺人はいかんだろう」 あんまり驚いたので冷静になった。こっそりと息を吐く。子供とはいえ、危険物であるのを忘れていた。 「痴漢に報復するのは正当防衛だろ」 「君が触って欲しそうだから触ったんだろう」 「ほんとに痴漢か、おまえ?」 どうもまずい雰囲気になりそうだったので、ロイは肩を竦めて見せた。 「……解決をつけてあげようとしたんだろう」 「解決?」 「だからその辺が……ああ、警戒しなくても、もう触らない。私も命が惜しいからね」 「よく言うぜ」 眉間に皺を寄せてエドが言った。ロイがからかいたくなるのは、こういうふうにエドが妙に自分を過大評価してくれているせいもある。気分が良いものである。 実際、実力だけでいえば勝てるものでもない。エドに足りないのは経験値くらいなものだろう。それで負ける気は、もう百年ほどなかったが。 「しかし触らないとなると、説明も難だけどねえ」 「説明ってなんだよ」 またろくでもないことだろ、と目が言っている。確かにろくでもない。ロイも紳士を自認しているので、あまりえぐいことは言いたくないものだった。大人のオブラートというものは、果たして通用するのだろうか。 (しないだろうなあ) だが、面白い素材をからかう機会を捨てる気にもならない。 「だから、体調が悪いんだろう?」 これは図星なのだ。エドは返答を躊躇っている。 「それも……、あー、局地的に」 「……う」 嫌々ながら頷いている。やっぱり、とロイは自分の勘に満足した。それにしても。 (良く生き残ってこれたなあ) 不思議だ。見目が悪いわけでもなし、その辺のお姉さんに食われなかったのだろうか。 きっと年上は好みじゃなかったんだろう、とロイは思った。もったいないことだ。 「……何なんだよ、これ」 やや真剣なエドが聞いて来る。ロイは吹き出しそうになったが、そんなことはしない。至極真面目な顔をつくった。 「溜まってるんだろう」 「何が」 「毒素が」 「はあ!?」 単語の不穏さにだろう、エドがのけぞった。 「ど、どくそ?」 がし、としがみついてくる。強気でも子供だよなあ、とロイは思った。騙されチョップだ。知識がなければ不安にもなるのだろうが。 「だから出した方が良いぞ、たまには」 「どうやってだよ」 「それを教えてやろうとしたんだろう」 じっとエドの視線が通り過ぎた。ここが重要だ、とロイは顔を引き締める。遊び倒してしかも、あとあとからかい倒すために。 「まあ、嫌だというなら病院に」 「……どうやってだよ」 乗ってきた。楽しげな顔を隠し、真面目に聞いた。 「大人しくしてるか?」 「……」 「殴られるのは私も嫌だしな」 「……殴らない」 「よし」 にこ、と笑う。 「それじゃ、来なさい」 しがみついた手を取って引く。エドは何かを言いかけたが、結局黙った。大人しくしている子供を、机の後ろにまで連れて行った。椅子に座らせる。もぞ、と居心地悪そうにした。 「こないだのあれ、見てから。ここが落ちつかないんだろう?」 足の間に手を置いてみる。エドは呪い殺しそうな顔をしたが、結局頷いた。なんだか深刻すぎる手ほどきだなあ、とロイは思う。もうちょっと軽くてもいいか。 「まあ、あれだ。誰でもそんなもんだ」 「誰でも?」 ぱっとエドが顔をあげる。少し明るくなった。 「そう、誰でも。大人になるとなー」 「わ、ちょっと、」 「ここがな」 よいしょ、と前をくつろげる。男のものなど見たくもなかったが、子供の、となれば興味もある。ひょこりとしたかわいらしいそれを見て、なるほどなあ、とロイは思った。懐かしの若かりし頃を思い出したのだ。 (昔は私もこんなだっけか……) しみじみ思う。それにしてもやはり、そこはわずかながら反応を示している。ずっとこうなのだとしたら、ずいぶん哀れなことだ。自分で触ってみようとは思わなかったのだろうか? (ああ、弟さんがいるから、かな?) 心配させたくなかったのだろう。そういう性格だ。 「鋼の」 見上げると、エドは唖然とした様子だ。いつも小憎らしい少年に、とにかくロイは愉快に思う。左手を取って導くと、びくりと身体が揺れた。 「大丈夫、触っても痛くないから」 笑いたくなるのを堪えながら、真面目にレクチャーする。 「あ、」 指を重ねて動かしてやると、すぐに吐き出した。ぐったりと身体が倒れる。初めてならこんなもんかな、とロイは思った。やはりしみじみしてみる。どうも昔すぎて思い出せなかった。 机からインク拭き用の新しい布を探し出すと、きれいに拭って元の場所に押し込めてやる。エドはまだぼんやりしていた。 「鋼の」 にこりと笑ってやると、は、と表情を取り戻す。次にはきゅーっと音をたてるように顔を赤くした。 「楽になっただろう?」 「い、まの」 「こんなもんかな、子供には」 「……るっせえ!」 振り上げかけた手が止まる。約束を思い出したらしい。だいたい、ロイは悪いことをしたわけではない。そんなことがぐるぐるして、エドはどうにも珍妙な顔をしていた。 何を言うかと思えば、小さく礼を言っている。 「……ぶっ」 さすがに笑った。 「何笑ってやがる」 「いや、かわいいなあ、と」 「誰がかわいい、誰が!」 「いや身長じゃなくてな」 「あ、そう」 素直に落ちついた。 「……って、そうじゃないだろ」 気づいたようだ。ロイはうん、と意味のない頷きを返す。時計を見上げると、丁度良い時間が経過していた。これ以上ない暇つぶしになったので、仕事が進むことだろう。 「まあ、あとで、それらしい本でも届けよう」 「それらしい?」 「心配しなくてもちゃんと包んでおくよ。ああ、弟さんに見られてもまずいか。だったら表紙もきちんと隠しておこう。ああいう系統の本は表紙からどぎついからな。それがまた、味だといえば味なんだが。君はどういう女性が好みなのかな?」 わけもわからずにいたエドが、何となく理解したらしい。 「い」 「淫乱系か? それはまた」 「いらねえ!」 がつんと衝撃が来た。それでも手加減はしたらしい。後ろに倒れることは免れて、どたばたと去っていくエドの背中を見ていた。扉ががつんと閉められてから、もうたまらずに椅子に縋りついて笑う。 「ぶっ……くくく」 おもしろいものが傍に転がっていたものだ。これはまた、からかうなりできる。大人のお姉さんに遊ばせるのも悪くないかもしれない。わけてやるのは勿体無いが、そういうことの好きな女性も何人か思い当たる。 (しかしとりあえずは、教材だな。ハボックあたりに買いに行かせるか。女性の趣味は悪くないんだよなあ、あいつ) 愉快な考えはつきない。色々教えてやろう、と思いながら椅子に座った彼は、まだ思い出していない。 何しろエドワード・エルリック。鋼の錬金術師は、普通の子供ではないのだ。 |