「卒業おめでとう」
 そして与えられたのはキスと、小さな家だった。いきなりロイは目眩を起こした。男がその腰を支え、中に進ませる。
「すまないが、あまり時間がないんだ。すぐに案内をしよう」
「……いやあの」
 片手に卒業証書を丸めて持った、式帰りのままである。ロイとしても、これから卒業パーティなどがあったりするわけだが。なかなか身体の開かない男が、祝いたいというのでそちらを優先させたのだ。
 けれど待ち合わせの場所が店ではなく、ただの一軒家だったという話だ。
「気に入らないかね?」
 だったら別の場所を、と言いだしそうだ。確かに急いでいることに違いはなさそうで、ロイは溜息をついて足を踏み入れた。面倒をかけるより、頷いた方が相手にとっては楽なのだろう。
 それにしても貰ってどうするのか。卒業したら一人暮らしをするとは言っていた。けれどそれはつまり自立するとか、今まで養ってくれてありがとうとかそういう意味であって。
 家をくれとは誰も言っていない。というかそれじゃ愛人だ。
「賃貸でも構わないんだが、その場合、君は成人していないからな。私の名前が必要だろう? 実家の方でも構わないが」
 まだくらくらしているロイに、考えていないわけでもないらしい。告げられた内容に、ああ、とロイは頷いた。
「それは君が嫌がるかと思ったんだがね」
「……そうですね」
 その通りだ。まがりなりにも、名義上も、まったく男と関わりなくいようとすれば、家を貰ったほうが話が早いということだ。
「けど」
「ヒモは確かに男のロマンだが、君の主義じゃないだろう」
「……ごもっともです」
 先手を打たれ、ロイは両手をあげてみせた。とにかく今はめでたい日である。話は今度、余裕のある時でもいいだろう。
(ええっと、軍に入って返済するとしたら、まあ、できないこともないだろうけど、この大きさの家なら……)
 指折り追って数えつつ、男のあとを付いていく。見えたよりもずっと豪華な家だった。古いが、悪くない年の取り方をしている。触れれば材質はわかったから、壊しても修復は簡単だ。
 趣味は悪くないのだ、とロイは天井を見ながら思った。研究をして過ごすには、とことん落ち着ける場所だろう。
「あまり部屋数はないが、一部屋を大きく取っている。その方が君には使い勝手が良いだろう。書庫も必要だろうし」
「はい」
 連れられてとてとて歩き、部屋を見て回る。返すか受けるか考えていたロイは、だんだんとなんだか落ち着かなくなってきた。
 どこに何を配置するだとか、考えてはいけない。いらないとは言えなくなってきてしまう。そういう誘惑は、なかなか卑怯だと思うのだ。
 しかし、この男にどんなメリットがあるのだろう。
(金が余ってる、とか)
 ありそうだ。時間がない男というのは、だいたい金がある。その逆はやっぱり逆だ。
「地下もあるが、それは一部屋だ。今度にすることにして……おいで」
 本当に時間がないらしい。ちらりと外を見てから、男がロイを呼び寄せた。従って奥の部屋を覗き込む。
 あ、とロイは声を漏らした。側の男を見上げてみる。
「卒業祝いだ」
 小さなテーブルの上に載せてあるのは、未成人らしいシャンパンだ。日当たりの良いこの部屋は、なぜか一番狭い。隠れ家のような趣で、差し込む光が妙に切なくさせる。こんな場所に寝室をつくったのは、いったいどんな趣味の持ち主だろうと思う。
 なかなか気が合いそうだと思ってしまった。
「いつから、探してたんですか」
 呆れながら聞く。男は軽くコルクをひねり開け、無造作にグラスに注いだ。まだ明るいうちから。印象的な闇はどこにもなかったが、健全にきらきらと流れ落ちていく。
「さて。よく覚えていない。もうろくしたかな」
「仕事に差し支えないように」
 笑って言ってやると、男は顔をしかめた。
「差し支えもしないよりましだろう」
 どうにも無茶な言葉だったが、理解できないでもない。ロイは存外機嫌良く、シャンパンを受け取った。軽くあげてから口にする。いったい何をしているのだろう、とは思ったが。
(これで最後だとは思わない)
 しかし何かを終わりにした、寂寥のような雰囲気が漂っている。だから切なさに押し込められるようで、ロイはかすかに息を吐いた。壁がすぐに迫っている部屋で、背中は常に支えられているようなものだった。
 男を閉じこめている、とも見えた。彼は窓から落ちる陽を浴びている。
「……錬金術というのは、それほど必要のあるものかね?」
 窓の外を眺めながら男が言った。いつも嘘臭いほど穏やかな空気は、少しだけまっすぐになっている。顔を見せないのは、彼も切なさを感じているようで、ロイは目を細めた。
「食っていくのに不便がないくらいは」
「ふむ。それに満たされていては困るが」
 背中を眺めていたくて、ロイは近くにある椅子に腰掛けた。きしむ。脚がくらついているらしく、なおさなければならないと思う。思った時点で負けかとも思ったが、とりあえず今はそうしておこう。
「試験はいつ頃になるかね」
「そう待たせはしません」
「待つ気もない」
 振り向いて、男は力強く笑った。その必要はないだろうと言われているようで、ロイも頷く。優れている自分を知っていたし、無駄に時間を費やす気もない。
 ……もしかすると女性のためになら、わずかに使うかもしれなかったが。それはそれで、ロイの中で別腹である。
「早く来たまえ」
「ええ」
 軍に、というよりは、上に、ということだろう。意味を悟っていながら、ロイは気負わずに頷いた。そのつもりだ。
「もっとも、君がここにいるからといって」
「わかってますよ」
 男はわずかに笑みをつくって、また背を向ける。窓を開けると埃がたった。そこまでの偵察はしていなかったらしかった。男はせき込みもしないで、むしろおかしさをおぼえたようだ。
「どこにいようと、恩がなかろうと、たぶん」
 この男の狗でいることにかわりはないのだ。そう、自分が思っているというそれだけで。狗は忠実だが、目の前の者に一番従うわけじゃない。あくまでも自分の価値観でしか、主人を認めないのだ。
「まあ、そうだろうな」
 あっさりと男が頷いた。まだ埃が舞っている。時間はいいのだろうか、とロイは思った。
「だが、保護されるのも狗の義務ではないかね」
「……そういうことを言う」
 子供のような男の言葉だった。彼の屋敷を出ていくことは、きちんと話を通したことなのだ。主人に養われるだけでは意味がないと。今更、文句を言われても困る。けれど困るよりも、ロイは好ましく思った。離れようとすることに、ロイもわずかな不安を感じていたのかもしれない。
「ちゃんとあなたの元に戻りますよ。どこにいても」
「急ぎたまえ、ロイ」
 名前を呼ばれたことで、ロイは多少、不躾な笑顔を返した。
「わかってる」
「離れていても戻っては来るが、それは、側にいるためになのだから」
「ええ」
「もちろん側にいなければ、噛みつくこともできまいよ」
 少し唇を曲げた。やや遠くを見たロイに、男が笑う。
「私が噛みつくこともな」
「……楽しみにしてる」
 ロイの返答に、男は愉快そうだった。冷たい空気を運んできた窓が、ゆっくりと閉じられる。雲が通ったのか、光がわずかに陰った。また光が増す。進みつつある時間を示しているようで、悪いものではなかった。
 機嫌の良い男を見上げて、ロイは同じ顔で跪く。男の手を取り、甲に口づけを。その奥に隠された牙を、どちらも知りながら、今はなかったふりをしていた。
 どうか楽しませて欲しいと、互いに唇を歪めただけだ。