仕事中、唐突に現れて悪戯するというのは、なかなか悪くない冗談だと思ったのだが。いつもなら何だかんだで笑っているロイは、椅子の背に抱きついてそっぽを向いていた。
「ロイ・マスタング君」
 丁寧に名前を呼んでみても、振り返るそぶりを見せない。半裸で服を身につけもしないというのは相当だ。これはもう、誰に見られたところで知ったことではないというくらいの気分で。
(いかん、拗ねたか)
 実にまったりとそう思った。拗ねても冷たくならない背中というのは、要するに子供のものだ。相変わらず、気は幼い男である。羨ましいくらいだ。
 もっとも自分の力だけで生き抜いてきた男には、ありがちなことかもしれない。あらゆるパターンに符合せずにすんだということだ。何よりも自分を信じる。それは世間では悲しいことであろうし、彼は確実に幸せではない。
 しかし私はそれを好ましく思う。雨に震える子猫を、哀れでもなく、まず愛おしいと思ってしまうような感覚だ。
「仕事はいいのかね?」
 聞いてみると、首を振った。髪がぱさぱさとパイプ椅子の布に擦れた。ずいぶん寝心地が悪いだろう、と今更ながらに気づく。成人男子が二つ並べて眠るようには、パイプ椅子はつくられていない。
 いなかったはずだ。あんまりしっくり似合っていたが。
「……あなたがやってください」
「ふむ。いや、私は仕事は終わらせてきたがね」
 でなければ、追手もなくこんな時間はない。
「私の仕事をです」
 なるほど。私は長椅子に並べられた書類を見た。整然とした並びと、傍らに置かれたステープラー。どうやら、会議の資料をつくらんとしていたようである。大佐がするような仕事ではない。ついでにいえば、大総統がするような仕事でもないだろう。
 一番上の人間が雑用をしたら、革命が起こらないとも限らない。つまらんことである。
「君の仕事かね?」
 聞いてみると、また頷いている。ぱさぱさ。髪が少し濡れているのだ。汗だろうか?
(汗だろう)
 思い返してみたが、それ以外の要因はない。どろどろと汚れた椅子は、さすがにそれ以上飛ばす精力はなかったものと見える。若くないのだ。
 この男も。
(なるほど)
 しみじみと思う。子供は成長し、老人を追い越す。その日も遠くはないのだろう。それこそ私に与えられた、最高の幸福ではないか?
 まあ、得られることはないのだが。
「部下に任せてはどうかね」
 言いつつ、書類を端から取り上げていく。紙の感触は懐かしいものだった。何しろこちらまで回ってくる書類は、高貴すぎる紙を使っている。あれは明らかに経費の無駄だ。しかし、経費もどこかで使わなければならない。文句を言われない場所を見つけることだ。
 軍がどうなろうと、知ったことではないとは思う。だが、常にそう思っていたのでは仕事ができない。人間、目の前しか見えない。
 私は完全な人ではあり得ないが。そんなことは大した問題ではない。しかし言い直してもいい。私は、どうせ目の前しか見えない。刹那ばかりがいつも現実だ。今周りにあるものが全てだ。
 未来に呪縛された目的は、いつもあとからやってくる。それが現実に変わった時にしか、本当のことはわからない。
「部下は優秀なんだ。だから、私が雑用をすべきだと」
「ほう」
「……言われたのに、また怒られる」
 拗ねた大の男に愛おしさを感じるような、刹那。
「誰もいないわけではないだろう」
 この空気を確実に感じている今は、それだけが全てだ。未来にそうでないことが、どれだけの意味を持つだろう?
「知らないんですか。それ、重要機密書類だから、そうそう見せられません」
「なるほど」
 私は笑んだ。なんだかんだで仕事熱心な男だった。
「それでは、私の仕事として不足もないだろうね」
 書類を重ねて綴じる。はしりだけ読んでみたが、覚えのない書類だった。さて、誰に対して重要書類なのか。
「……閣下」
「何かね」
 作業をすすめていると、静かな声がかかった。
「あなたのやることじゃない」
 そう言われても困るものだ。私は笑いだしたくなるのを堪え「さて?」と言葉を漏らした。自分で言っておいてこれなのだから、まったくわからない。拗ねたあとには自省しているらしかった。
「大総統閣下が」
「かといって君のやることでもない。困ったな」
 まだ、振り向かない。何を考えているのだろう。私も彼を見ることはなく、机上の書類をさらっていった。乾燥した皮膚が紙の上を滑る。なにしろ老いというのは、瑞々しさがなくなるものだ。
 そうではないロイ・マスタングは、パイプ椅子の上でしっとりと濡れていた。寒くはないだろうか。
「たまに思うんです」
 この部屋は暖められていたが、それはきちんと軍服を着た、平常な成人に相応しいものだろう。濡れすぎて裸で、熱の上がったあとの男には、足りないものであるに違いない。
「寒くないかね」
 途切れた言葉の続きを待つより、そう聞いてみた。彼は振り向かない。
「じゃあ、こっちに来て下さい」
 手にした書類を綴じてしまってから、私は瑞々しい男に近づいた。椅子に回され、気怠く落ちた指先がある。爪がきれいに揃えられていた。一瞬の画像として受け取って、私は悪くないと思う。
 刹那的な美はそこかしこに転がっている。一瞬を過ぎればそれは醜かったり、消えてしまったり、何事もなくなってしまう。過ぎていくもの。
 いつかやってくるものを、私は期待をしない。爪に光るのは夕日だろうか。私は。
「マスタング君?」
 期待はしない。今をそう変えていくばかりだ。それをしか許されていないことを、知らないふりをする者も多い。
「あなたは何が楽しいのか、妙なことばかりする」
「……まあ、否定はしないが」
 濡れた指先が首に触れ、やはり冷たかった。私にぬくもりを求めようとするのなら、いささか、愚者の行いと言えなくもない。けれども私はひとまず、そんなことを考えはしなかった。
「私をからかって楽しいのかと」
「楽しいがね」
 背中を撫でてやると、不思議に緩む身体だ。この男が何を求めているのか、私は知らない。与えられないものであれば聞いても意味はなく、与えられるものならば、勝手に持っていくことだろう。
 私は時間をかけることを良しとは思わない。今の時を楽しめなければ、意味はないと思うのだ。
「あんな、悪戯をするだけで?」
 とても納得できない、と彼は言った。理解できないものらしい。何しろやはり、彼はまだ瑞々しい男なのだ。私は思わず笑った。
「君が悪戯だけで満足しないというのなら」
「……そういうわけじゃない」
「そういうわけじゃない」
 まったく同じ言葉を返すと、また拗ねそうになった。どうもこの顔が気に入っていて困る。虐めすぎては嫌われるだろう。
「まったく、そういうわけではないな、ロイ」
「本気なら関わる気はないし、計算なら、もっと楽しむべきだ」
「なるほど」
 私はまた、笑う。自分の価値に不安を覚えたらしかった。まったくそれは彼らしいことだ。
「気にすることはない、君は」
「捨てるのなら、早めに。嫌がらせは困る」
「嫌がらせのつもりもなかったんだが」
 顎に手を添えて考えながら、私は愉快になっている。たかだか愛人におろおろと、言葉に迷っている自分をだ。これだから、この男は気に入っているというのだ。
 この男が、自分自身を気に入っているように。私もまた、今の私を気に入っているのだ。
「ふむ。気に障ったなら謝ろう」
 きゅっと、至近距離の瞳がまたたいたのがわかった。背中が堅くなり、緩んだ。わずかに反った背中を撫でてやると、小さな吐息が熱をかける。
「……そんなことを言ってるんじゃない。なんで、あなたがわざわざ謝るのかと」
「君を手放す気はないからね」
 とりあえず。今は。
「あなたに謝られると、これで最後だと思いそうになる」
 どうせいつかは失われるものを、わざわざ、自分の意志で捨てようとは思わなかった。その日がくれば、何が全てになるかはわからない。傷つくだろうか?
 それもまた、その時のことだ。
「……最後はまだ、考えてもいないが?」
 引き寄せる。濡れた男は理解していなかった。どうやら未来を見据えているらしい男は、たまに、ひどく間違ったことを思考する。先はあっても意味はない。彼は知らないのだ。
 終わりは近づいている。
 だが、来ない限り永遠に遠い。