戦地から引き揚げたあと、恐れ多くも頂いたのは、勲章、多少では揺るがない地位と椅子と、ペンとサインを待っている書類だった。
 どれも役に立たないことにかけては他の追随を許さない。
(食うに困らないのは悪いことじゃないが)
 どうにかしてほしいものだった。有り難くとも多すぎるといけない。机をはみ出しそうだった。この机もまた頂いたものらしいから文句は言えないが。ここから物を落とすと、怖い部下が怒るのだ。
 ちなみにその部下は、さて、頂いたものではないと思うが。
「あれを、くれたんだったら最高だ」
 そんなことはない。ロイは書類を前にまた深い溜息をつく。帰ってくる前に終わらせなければ、何をされるかわからない。しかしどうせ直前にならないとスイッチが入らないのだ。燃費がいいので。
(……馬鹿らしい)
 文面を読み進める気にもならない。戦後の処理は既に終わっている。回ってくるのは、とりあえずサインをさせようという名目の書類だ。誰かの責任がなければ多少は問題か、というくらいの。
 これが有り難い采配というものだろうか。つまりは地位を与えたものの、やらせることを思いつかないらしい。それもそうだろうとロイは思う。
 焔の錬金術師に、戦い以外の何をさせればいい?
 いっそ、上層部は気の毒だ。
(大人しくしているつもりもないが。それも、あちらにしては願ったり、か)
 どうとでも理由をつけて放逐してしまえる。もっとも今は不味い。英雄として扱った男を、そうそう捨てられはしない。志気に関わる。
(毎日毎日、サインだけ、か。腕があればいい。それは、戦中と変わらないな)
 ロイは書類に向かって苦笑した。悪い話ではないのだ、まったく。一生暮らせるほどの報酬は頂いている。ただ、あのまま軍をやめる気にならなかった。あまりにも意味がわからないではないか?
 眉を軽く揺らして、思う。サインを書くように人を殺し、書類をめくるように死体を燃やしていた。次から次に書類は現れるし、殺す人材には事欠かない。毎日のように優秀な部下が言う、期日は迫っています。
(なんだ)
 変わらないじゃないか、とペンを動かす。どうせ相手の顔を見てもいなかった。書類になるとどうして、わざわざ読もうなんて思うのだろう。
(ばからしい……が)
 わかっているのだ。全てはここから生み出された。誰かのサインと会議。現実はそれから動き、ロイは人を殺した。繋がっている。あの戦争が始まったのは、この机の上でしかなかった。
(いきなり善人になれるわけもないだろうに?)
 笑えてきてしまって、どうにもいけない。これではまた怒られるに違いない。ひとまずの作業を諦めて、椅子に背中をもたれさせた。この心地よさはかなりの無駄だろう。
 と、ノックが鳴る。
「どうぞ」
 無駄を存分に楽しみながら答えた。扉が開いて現れた顔に、条件反射のような苦い顔をつくる。もしかすると最近では、本当に嫌なのかもしれない。
(思い出すから)
 などということを、考えたくもなかった。
「よ」
 似たような書類を与えられているはずの男は、気楽に手をあげた。わからない奴だとロイは思う。馬鹿みたいなことを馬鹿みたいにやっているくせ、芯の芯では容赦がない。マース・ヒューズ。この男の凍り付いた表情を、ロイは何度か見た。
 戦場で。何を考えていたのだろう。アホかというほど柔らかくなる頬を、わざわざ。
「ご機嫌斜めなようだな、英雄殿は」
「人間兵器」
 冷たく言ってやると、肩をすくめて言い直した。
「人間兵器殿は」
「何しに来た」
 息を吐く。この男の前で突っ張っていても意味がない。アホに真面目になるほど馬鹿なことはないと思う。少なくとも、この男がアホでいようと思っているなら。
「ちょっと息抜きにねえ?」
「いつ息が詰まってるんだ、おまえ」
「最近はずっと」
 胸に手をあててしみじみと言う。うんざりと息を吐いたが、どうにも軽い気分になった。意図したことだかはわからないが、この書類に向かうよりはいい。
「人間兵器殿が何してんだか、見に来たわけだけどな。さっきすれ違った、おまえんとこの美人。最近おまえがどんよりしてるって言ってたぜ」
「どんより」
 首をかっくりと曲げ、背後にある窓を見上げた。陽光がさんさんと降る。なんとも嘘臭い窓だ。
「彼女が、そう?」
「いや、もう少し辛辣な」
「少し?」
「多めの少しだ」
 重く頭を持ち上げると、ロイは肩をすくめて見せる。妙な雰囲気でいる自覚はあった。ずいぶんと職場環境を劣悪にしてしまっているだろう。ただでさえ少ない軍人女性なのだから、できればいなくなってほしくない。
 別に、何か不埒なことをしようというわけではないが。精神衛生上、いてくれるとほっとする。いくら同列に扱えと言われても、気分までも縛れるものではない。
「わかった。善処しよう」
「俺としては、まあその辺はどうでもいいんだけどな」
 気怠く言って、ヒューズが机上の書類を取り上げた。窓にすかすようにして見ている。何かが見えるのだろうか。思わず聞いてしまいそうな顔だった。
「どうでもいいのか」
 光が眩しくて、ぼんやりと呟いた。すかしてみれば書類もなかなかきれいだ。白く半透明の中を、黒い文様が踊っている。
「それより、俺の前でどんよりしてるのは問題だと思うぜ」
「……どう違う」
「触ってねえ」
 ロイは黙った。返答が思いつかなかったというより、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
(ああ、そういえば)
 触られていないと言えば、触られていない。
「……なんでそこで出てくるんだ」
 ロイは今更思い出したくらいのものだった。だいたい、戦場でのことを一々覚えていない。特に忘れようとしなくても、細かな出来事は薄れていった。強烈で、たまらないものばかりが残っていく。
 ふるいにかけられていくのだ。だんだんと形を表していく。埋もれていたものが。
「おまえが真面目に仕事してると思ったから、放っておいた、というのにだ」
 ほれ、と書類を渡され、受け取った。要するに何が言いたいのかはわからないが、下らないことであるらしい。ロイは溜息をついて、その文様を文字として見た。
「意味がないじゃねえか」
「わけわからん」
 文字を読み進んで理解すると、ペンをとってサインする。なるほど、読んでみれば意味のあるものだったようだ。たまにはまともな書類もある。まともな死体があるように。
「ローイ」
「……妙な呼び方をするな」
 惰性のように言った。新しい書類を取り上げて、文字を読み解く。くだらなさに沈没しそうになった。世の中は騙しに満ちあふれている。
 気怠く揺れた手をヒューズが掴んだ。さりげないようなやり方だったが、妙な威圧を与えてくる。さらりと見てから、ロイは瞳をあげた。
「おい」
 顔が近い。文句を言うとしれっと問い返された。
「何?」
「誰か来る」
 至近距離の眉があがって、ヒューズがおかしそうな顔をした。
「そっちか」
 無駄な雑談で埋めた距離は、すぐにマイナスになった。かけられた圧力に唇を開く。そっと。こんな場所で深く交わすつもりも、気分もなかった。書類が落ちる音が聞こえた。落としたのか、落とされたのか。
 首に回ってきた慣れた手は、妙に身体の力を抜かせた。
「あ」
 膝が揺れた瞬間に、唇が離れ、手が腰に回っていた。何をしているのか。けれど、さすがに忘れられたのは確かだった。唐突に戻ってきた陽光が、たまらなく眩しい。いくらか後ろめたい感覚がして、それがゆっくり身体を暖めた。
「……何しに、きたんだ」
「おまえには何も、やれねえからな」
「人をたかりみたいに」
 眉を寄せて見てやると、頭を撫でられた。まるで拗ねた子供を慰める仕草だった。まあ、いい。この相手がボケなのが問題なので、あまり気にしない。
「だから逆だ」
「……たかり?」
「俺の前にいる時くらい、忘れろ」
 また撫でられた。意味のない仕草だと頭が認識した。身体はひどく力を抜いてしまっている。今、手を離されたらどうなるのだろう。ひらりとした書類のように、床に流れることはできるだろうか。
「預かってやる」
 確かに身体は、今はもうヒューズのものでしかないようだった。預けてしまっている。ぼんやりとロイは見上げて、肩に顎を乗せてみた。別に。
「何も重くはない」
 呟くとヒューズは苦笑したようだった。陽光にすかされていれば、やはりもっと緩むべきなのだろう。ロイはまばたきをする。眠ってしまいそうになった。何を、大事なものを、ひどくそうしてはいけないものを。
 渡そうとしているような気がした。
「俺の前では図太くいろよ、ロイ。他はどんよりで構わねえから。たまには息抜きも必要だ。重いもの頭に乗っけたままじゃ、そのうち首が曲がる」
 そろそろと首筋を撫でられた。また馬鹿なことを言っている。
「……考えても、しかたねえ。俺に押しつけちまえ。ここにいる時は……おまえは悪くねえよ」
 辛辣で甘い言葉だった。ここにいる時は。
 もう一度、慎重にロイはまばたきをしている。口をでかかった言葉を飲み込む。こんなことを言うべきではないのだろう。ゆっくりと足に力を込めた。立ち上がらなければならない。
『おまえがいなくなったら、どうするんだ?』
 そのくせ、ロイは目を閉じたのだ。