「ごめんね」
 逃れられない死に絡めとられながら、彼女はそう言った。美しい顔が信じられないほど病んで、けれど笑っていた。
「ごめんね、ロイ」
 幸せそうですらあった。

 彼女が失われたあと、ロイは荷物をまとめた。偽善者めいた遠縁に引き取られるつもりはない。彼女の埋葬は、有る限りの金で知人の神父に任せている。ロイは最期のはなむけに、殺風景な部屋を花でいっぱいにした。
 さよならを言って家を出る。あてはないでもなかった。数年前の約束を、それほど期待したわけでもない。ぼんやりと朝日を見ながら、公衆電話を探す。
 彼女は全てを知っていたのだろうか。
 道の上で眠ってしまいたくなりながら、ロイはそう思った。



 大きな屋敷だなあ、と思う。
 廊下で店が出せそうだ。その上きれいに磨きぬかれた床で、こんなことをされるとは思ってもいなかったが。
「おまえが悪いんだ、おまえが……」
 もごもごとした言葉には、重要性を見つけ出せなかった。唇を噛むように言っているせいで、かつぜつも悪い。せめて人にものを言うなら、もっとマシな態度があるはずだ。
(これじゃ、嫌がるのもわかる)
 ロイはびりびりと破かれていく服を見ながら思った。これは申し訳ないことだ。自由に使っていい、というので、貰ったものなのかもしれないが。子供のふりをしても、そこまで図々しくはなれない。
(錬金術で直せる……かな。服の構成はいまいちわからないなあ。高級な生地、なんだろうし)
 それから思ったのは、ロイに相談してきた女性のことだ。年若いが、ロイよりも年上で、子供のあどけなさに救いを求めたのだろう。ロイは求められた役割をしっかり理解して、無邪気に彼女を励ましたのだ。
 それが、こんなことになるとは思わなかった。
「聞いてんのか!」
 男は彼女の恋人だ。つまりは彼女の悩みの種は、この恋人だったということだ。暴力的で、冷たくて、独占欲が強い。それでも別れられないのだと苦笑していた。
(仕方ない)
 ロイは思う。どうしても好きだというのなら、引き離されても幸せにはなれない。母親もそうだった。どんなに騙されても、ろくでなしとわかっていても、その男がいなければ幸せを感じられないのだ。
 何よりもロイは、女性に幸せでいてほしいと思う。エゴかもしれない。ただ、笑って欲しいための。
「聞いてる」
 無関心に答えながら思った。
(ああ、そうか。忘れさせればいいんだな。俺が)
 結論はひとつだった。そうすると男の誤解が真実になってしまうが、気にすることではないだろう。
 彼女をどうして自分に向かせるのか、ロイは考えようとした。そこを、頬にくる衝撃で遮られる。
「ふざけんじゃねえぞ!」
 ロイはどうだっていい事象としてそれを捉えたが、抗いはしなかった。この男は屋敷の下働きだ。使用人といえどもこの家の者を、ロイは損ねるわけにはいかない。世話になっているのだ。
 今の自分の立場がどこなのか、ロイは知らない。ただ番号が通じ、来ることを許されただけでも儲けものだったのだろう。屋敷の主人、あの男は、仕事が忙しくてひとまず来ることは出来ないのだそうだ。
 会って行き先を決めるまでの、仮の住処だ。
「ガキが……!」
 腹を蹴られる。これには呻いたが、痛みには慣れている。
 母親の男に乱暴者は多く、彼女はロイを庇ったが、結局、男には絶対に逆らえなかった。そしてロイは見えないところで男に報復したのだ。現われなくなった男に、母が嘆き、ロイはそれを申し訳なく思った。
 彼女を幸せにしたかった。
『ごめんね』
 思い知らせてやる、と言い捨てた男が気味の悪い仕草で肌に触れてくる。ロイは哀れな男の恋人のことを考えていた。
(この男を)
 最初にどうにかしたほうがいいのだろうか?
 けれど、それはあまりに面倒だった。よほどの恐怖を与えなければ、彼女が被害を受けるかもしれない。とても許せることではなかった。まず、彼女の安全を確保するべきだろう。
 何よりもロイは、錬成陣を描く気になれなかった。気だるい。
『ごめんね』
 彼女は、全てを知っていたのだろうか。
(だとしたら)
 望みのとおりの自分の人形を得られずに、悲しんでいただろうか。幸せでは、なかったのか。笑ったのはロイのためだったのだろう。彼女は、やはりそれでも母親だったのだから。
 ロイは胸に痛みを感じる。誰よりも大事な女性を、自分のために死なせてしまったような、そんな気さえした。
 ただの子供であればよかったのだ。
 ぼんやりと考える。手を動かすことが面倒で、ロイは男の行動を見守っていた。抗わないロイを男は気にしていない。殴られて脅えているのだと思っているのだろう。
(ただの子供)
 愚かで怖がりで、無知な子供だ。染みついたその演技はすぐに思い出せた。口を開いて哀れっぽい言葉を告げてやろうとして、ふと、ロイは息をのんだ。
「あ、」
 見上げた先に彼がいた。一度だけ、それも数年前に見ただけの。いくつかの年を重ね、ロイを冷たい目で見下ろしている。
 何があったのかわらかなかった。けれど風が吹き込み、恐ろしい何かがあったのを知る。
 そして次の瞬間に、目の前の男から血が飛んだのだ。
「うっ……げぇ!?」
 しばらく何にも気付かなかった男は、自らの背に不思議そうに手を触れさせた。流れた血を認識するなり、白目をむいて倒れる。刻まれたのは背中の皮一枚だけだ。それを視界の端に捉えながら、ロイは呆然と見上げていた。
 彼は抜き身の剣を手にしている。あまりな速度で切られたせいだろうか、刃に血は残っていなかった。
「……ロイ・マスタング?」
 不快そうな言葉がかかり、ロイは身を竦めた。音をたてそうな首を頷かせる。恐ろしかった。汗ではない、飛び散った男の血がロイの頬を伝った。
「再会はめでたいことだが、私の家の廊下で何をしているのかね?」
 またロイは頷く。出ていけ、と言われるならば、それを幸いと思っただろう。びりびりと背中が凍りついている。本能的な恐ろしさを、ロイはこの男に感じていた。
 低い声のひとつで、簡単に息が詰まる。
「まったく、急いで帰ってみたらこれとは」
 ロイは言い訳を考えることさえしなかった。男はこの場所を汚したことを怒っているのだ。誰のせいだなどとは、聞きたくもないのだろう。
「マスタング君」
「はい」
 恐ろしさに喉を押し出すように、しわがれた声が漏れた。
「来期の入学手続きを取ったが、それまではうちにいて貰うことになる。わかっているね?」
 もうこんなことは許されないということだ。ロイは震えるように頷いた。
「この家で、見苦しいものを見せないでくれたまえ」
 唇だけで是と答える。喉は開かなかった。男が満足そうに頷き、わずかにだけ圧迫が緩む。
「よろしい。……ロイ・マスタング君。母上のことは聞いている。大変だったね」
 手が伸びてきて頭を撫で、それにロイは泣き出しそうになっていた。必死で涙腺を押さえつけている。さきほどまで恐ろしかった男に、今度は慰められそうになっている。わけがわからなかった。
 理解できない。
 それでもロイの身体は緊張を解く。騙されてしまう、子供の自分を呪った。嘘に決まっている、のに。
 この男は怖い。
 なのに、どうして逃げ出すことを考えずにいるのだろう。安堵しているのか。まるで、これでは。
 好きな男に逆らえない、母親のようだった。
『ごめんね』
 頭に染みついた声に思う。知っていたのだろうか。そして彼女であれば、この男は優しく扱ったのだろうか。裏に隠れた恐ろしさなど、かけらも見せずに。
「それから、私の下に入るのならば。……ああ、馬鹿のふりは悪くはないが」
 あの時告げたように、馬鹿な女はかわいいと、心から思うのだろうか。
「いつまでも馬鹿でいられると思うな」
 ロイは凍りついた目で見上げた。頬がびくりと震えた。下らなそうな視線に返す言葉がない。こくり、と喉を鳴らした。
 頷く。指先に熱がこもり始めていた。
「では、夕食を一緒に」
 無害な顔で笑う男を見ながら、ロイは心の中で謝罪した。どこまでもきれいなままで死んでいった女に。
(ごめんなさい)
 唇を舐める。何もかもはもう遅かった。彼女の望まない存在に、自分は、この男のためになるのだろう。もちろん理由は用意されていた。どこにでも、けれどそれに縋ることもない。
 こうして与えられた力だけ、それで充分だった。
「マスタング君?」
 呼びかけに目を細めた。思考にこもらない、隙を見せない視線を向けて、ロイは笑った。この相手に演じてみせる必要はないのだから。
「ええ、ぜひ」