雨に降られた。 エドは溜息をついて空を仰ぐ。多少の雨を気にするような性質でもなかったが、さすがに土砂降りの中を走って帰ろうとは思わない。借りた軒先から雨を睨み、勢いがやまないものかと待っている。 こういうのは、嫌いだ。 勢いは増すかもしれないし、減るかもしれない。今出れば得かもしれず、損かもしれない。運は悪くはないのだが、それだけ、小さなところで不運を浴びている気がする。 と、この雨の中を、悠長に歩いている人影を見つけた。 (ありゃ、自棄だな) 呆れて見ているとこちらに近づいてきた。黒髪がべっとりと顔にはりついている。一メートル先も見えない雨の中、表情は伺えない。こう大胆なことをするだけあって、若い男のようだ。 「げ」 造作がわかる距離になって、思わず声をあげた。男はひらり、いつものように手をあげた。 「や、鋼の」 裏で何を考えているやらわからないくせ、たまに子供のような仕草をする。からかわれている、ようにしか思えない。 「……何やってんだよ?」 できるだけ冷静に、腹から声を出してみた。ざばざばに濡れた男は、上げた手でそのまま雨を受ける。 「雨に降られている」 「アホか?」 「この際だからと思ってな」 呟き、自嘲したように頬をあげた。思わずエドは言葉を失った。からかうなら、最後までそれを貫けというのだ。いきなり妙な雰囲気をさせないでほしい。こちらは馬鹿にされたような気になる。 だから、嫌なのだ。 「そっちは。雨宿りか?」 エドは冷えた頬を見ないようにする。痛ましいくらいに青い色をしていたが、構えばこちらが馬鹿を見るだけだ。これだけ、心配してくれという顔をしていても。 どうせ、こちらがそうした途端、そんなことはなかったような顔をするのだ。あるいは騙されたかと思わせるような。後で考えればそんな嘘は見ぬけるのだけれど。案外、刹那的な男だった。 「それ以外の何に見えるんだよ」 だからもう、最初から相手にしない。すると「これだから子供は」という顔をする。ああ言えばこう言う、言葉にさえしないくせに。 「人待ち、とかかな」 少し大人びた顔をして、彼が前髪をあげた。雫がぽたぽた、白い手袋に落ちた。乾かすのに随分時間がかかるだろう。それまで無防備でいられる、そういう神経がわからなかった。 危機感がない。あるいは。 危機的になっても構わない、と思っているのだろうか。時々、そういう捨てたところがある。エドはやはり、嫌なのだ。 ロイは彼にとって、うそ臭い大人の象徴みたいなものだった。実がない。まったくない。そのくせ、人を騙す、出しぬく、上手く生きている。 本音が見えない。 「この雨で?」 「まあ、女性と待ち合わせだったら、今すぐ迎えに行け、と言うな」 「俺が濡れる」 「濡れたっていいんだよ」 笑った。押し上げられた頬の上を、静かに水滴が流れていった。他人事ながらくすぐったく思え、エドは視線をそらす。見る場所は濡れた地面か、濡らそうとする空しかない。 「それで会ってどうすんだよ。うざいだけだろ」 「いいんだよ、それで」 わかってないな、という顔で笑う。エドはそっちのほうがよほど子供だ、と思ったが、とても言えなかった。そんな顔はできないと思った、それだけだ。 「……あんたは?」 「帰宅中だ」 「デート帰りか?」 「いや」 「珍しいじゃん」 「んー……」 曖昧に声をあげて、ロイは視線を動かした。エドをじっと見る。 「ま、そんな時もある」 腹立たしいほどに、あからさまなやり方だった。相手がエドだから話すのをやめたのだ。 とにかくロイは、エドを腹立たせるのが上手い。 (普通の子供だったらさ) こんなこと、気づきもしないだろうと。 (気づけよ) 教えてやる気もなかったが。だんだん、そうやってエドの中で殺されていく言葉が、わけのわからないフラストレーションになりそうだった。言葉をためらう、ようなたちではないと自覚しているというのに。 ロイはたまに、エドを大人扱いする。くせに、やはり子供だと思っている。どちらでもエド次第だと言わんばかりだ。腹立たしい。 だから大人であろうとする。無駄なことは言わない。これもロイの計算のうちなのだろうか。 「あ」 ふいにロイが明るい声をあげた。つられてエドも顔をあげる。小雨になりはじめていた。 「鋼の」 「へ?」 腕を掴まれたかと思えば、前に一歩を踏み出している。何が起こったのかわからなかった。エドはちくちくと首筋にささる雨を感じた。急に冷えていく身体を自覚し、慌てて身体を引こうとする。 しかしロイがひきとめた。エドを雨の中にさらそうとしている。振り払おうとしてできなかったのは、その手が冷たかったからだ。 「何、すんだよ」 声には勢いがなかった。それに、どうしてかロイが困ったように手を離す。 「今日は元気がないな」 「違う」 エドは即答した。 「あんたが、元気がないんだ」 一瞬だけ意表をつかれたような顔をした。あどけない顔だ。子供が驚いた時の顔で、初めて見るものだった。それを見逃すようなエドではなかったが。 けれどそれが本当のものなのか、演技なのかわからない。それが嫌なのだ。 上手に立ったと思う次の瞬間につき落とされる。そんな気がして、いけない。エドはロイとの位置が掴めない。安定を欠く。いらつく。ロイが見えるのは、傍にいる誰かの評価のためだ。 彼自身が見えたためしがない。 「濡れてしまったな、鋼の」 つながりのない言葉を、冗談のように吐き出した。酔っ払った人間のような勢いで笑う。エドの手を引っ張った。愉快にも思っていないくせ。いや。 思っていないに違いないとは、決して思えないのだ。 「お詫びに、うちに泊めてあげよう。ここから宿までは遠い。夜になってしまうよ」 エドは空を見上げた。雨雲のための闇なのか、本当に夜が迫っているのかわからなかった。 浴室から出ると、ロイは既にベッドで眠りについていた。部屋は暗いままだ。弟には連絡しておくから、とすぐに浴室に案内されたので、最初からつけなかったのか、消してしまったのかわからない。けれどしっかりベッドに入りこんだロイからは、エドを待とうとかそういう意思は感じられない。 エドは溜息をついた。何なのだろう、この人は。わざわざわけのわからない人格を装っている。そうとさえ見えた。 「……帰ろうかな」 髪を拭いながら思う。窓から外を見ると、やや小雨になったように思う。コートをかぶって走れば被害は最小で済む。土砂降りは一時のことだったようで、びしょ濡れになるほうがおかしいのだ。 「……?」 ふと、エドはロイを振り返った。ベッドで眠っている。けれど。 あの濡れた服はどうしたのだろう? 「ちょ……あんた!」 近づいてみて慌てた。なんだって着替えもせず、濡れ鼠のままで眠りこんでいるのだろう。馬鹿にもほどがある。子供だってやらない。冷たいだろうに、やすらかな顔をしていた。風邪どころの話ではない。 「大佐、マスタング大佐!」 呼びかけながら揺らしても起きない。血の気が引く思いをした。 「こら、起きろ。起きろって! ……ロイ!」 「……あ?」 ぱちんと彼が目を開いた。不思議そうに回りを見まわしてから、嫌味のようにやっとエドを見つけた。ぼんやりとした目はかなり眠そうだ。ほっとエドが息を吐くと、もぞりと身を起こした。 「あのな、あんた、」 苦言を紡ごうとした唇が閉じられた。後頭部に回った腕と、目前の伏せられた瞳を見る。重なった唇が冷たかった。同じに冷えた髪が、頬に触れて気持ちが悪い。 それよりも何よりも、唖然として動きが取れなかった。大人の当然の動きで舌が滑りこむ。どうにもできずに硬直していると、不思議そうなロイの瞳がまたたいた。数秒、暗闇の中で静止している。 「は……鋼のっ」 慌てて離れたのはロイの方だった。ベッドに腰をついてずるずる下がっている。わけもわからずそれを見ていたエドは、急に理不尽な怒りにとらわれた。 「な、んだそれ……」 いきなり唇を奪われて、被害者ぶられてはたまらない。なんなのだ、一体。声に込めた怒気に気づいたのか、ロイが顔を顰めた。 「……すまない、間違えた」 「はあ!?」 「髪が長いし……、いけないな。子供は中性的だから。なんでこんなに暗いんだ?」 「子供ぉ?」 「ああ……若いってことだよ」 さすがに罪悪感を感じているのか、真面目に言いなおした。確かに若いといわれれば間違いなく、納得しておくことにする。まだ唇の感触が残っていて、そちらに意識を向けていたせいもある。 拭いたいが。 それはそれであからさまではないか。 「しかも寒い」 「……あたりまえだ」 もう怒る気も失せた。色々と面倒だ。だから、構っていられないのだ、この男には。……少し意味が変わった。馬鹿馬鹿しい。 「濡れた服を着替えるくらいしろ。いくつなんだ、あんた」 「あ? いや。そのうち乾くかと思ってな」 「……馬鹿か」 「乾かなかったら水分飛ばせば良いだろう」 「最初からしろ」 「指が震えて錬成陣が描けない」 「……」 もう何も言うことはない。 ぐったりと疲れたエドは、気の抜けた音をたてて両手を叩いた。体内中の水分を飛ばしてしまいそうで、面倒くさい作業なのだが。濡れた服を脱がすよりは楽だろう。 「あぁ、すまないな」 「……って、そのまま寝るな。着替えてこい。下着とか濡れてるだろ?」 欠伸をしたままぼんやりしていたロイは、曖昧に頷いてベッドを降りた。エドはもう、毒を食らわば、という気分だ。濡れたシーツを引き剥がし、マットレスをひっくり返した。細かいことはもう知らない。好きにしてくれ。 「おい」 「ん?」 「なんでそこで脱いでんだよ……」 「良いだろう、何処でも」 色々と文句をつけられて、ロイは不満そうだ。本当にこれはいくつなのだ、と頭痛がした。それともダメな大人というものか? 「鋼の」 「何だよ」 もぞもぞとベッドに戻ったロイが、こいこいと手招きした。帰れもしないし居たくもない気分になっていたエドは、だらだらと近づく。 「寒いから、一緒に寝てあげよう」 彼の頬がまったく青いままでなかったら、殴りつけていたに違いない。 |