部下を先に返し、二人だけで留まったのには理由があった。自ら起こした焔の煙で、目をやらわれてしまったロイのためだ。ヒューズはそれを聞いた時には笑ったが、今は戦時下だ。「おまえ、ばっかだなー」で済まされるものでもない。
 砂漠を超えていくのは、ただそれだけでも大変だ。目の開かなくなっているロイをつれては、夜に入りこむだろうと知れた。砂漠の夜は冷たい。速度を重視した作戦だったために、余計な装備は一切なかったのだ。
「調子はどうだ?」
 焼け残った小屋にはきっちり鍵がかけられている。市民のたくましさを見たようで、ヒューズは顔をしかめた。死んだ、殺したかもしれない相手のことを、それほど知りたいとは思わない。
「……開けると辛い、まだ」
 扉を蹴り開けて入りこむ。幸いに焼け残ったここは、集落の外れだ。あるいは生き延びたかもしれなかった。それにしても、賢い市民が今夜のうちに帰って来ることはないだろう。
「だろうな。あんだけまともに煙浴びてりゃ」
「目を閉じてどう錬成陣を描け、と」
「……知るか」
 錬金術の領分には関わらない。最後にはどうせ「わからない」となるのだから、最初から知らないに限る。要領よく生きなければならない。でなければ、次に死ぬのは自分だ。
 考えてはいけない。
 ためらっては、いけない。目前の敵だけを見ている。敵がいない時には、後ろに背負った家族の顔でも。
「どうとでもなんだろ、国家錬金術師殿ならな」
「そうもいかない。何にでも理屈はある。……ヒューズ」
「なんだ?」
 ぼたぼたと涙を流しながらロイが言った。
「目がきかないと良くわかるな。声が荒れてる」
「……そうとも」
 泣きながらでも口元を笑ませ、皮肉な顔ができるのだ。
 ヒューズは肩を竦めた。言われた通り、落ち着いていないのは確かだ。荒んだ気分でいる。自分が殺したかもしれない相手の家に、どうして泊まらなければならないのか。
 だからといって、ロイを放っていく気にもならなかった。どこか抜けている親友を見捨てるほど、後味の悪いものはない。
「それから、ヒューズ」
「なんだ」
「ゆっくり歩け」
「ああ」
 視界を失っている相手にとっては、ヒューズの手と声だけが全てなのだ。思えばロイの様子も、どこか頼りない。苛ついた声を聞かせているのでは、不安にもなるだろう。
 ただ、頬を落ちて行く涙のための錯覚かもしれなかったが。
「……段がある。小さい」
 告げたのは部屋の区切りだった。そこまでの説明はしたくない。ロイは足をあげた。それでいい。
 使いこまれた、誰かが踏んできた痕跡などは言わない方がいい。けれど見てしまう自分は不幸だ、とヒューズは思った。たまには見ないほうがいいこともある。見たほうがいいこともある。
 ロイはまだぼとぼとと涙を流していた。身体中の水分を全て落としていそうだった。床に薄く敷かれた布を踏んで、小屋の隅に水がめを見つけた。こんなものを持って行くことはできなかったのだろう。
 彼らは、逃げ出したとしても。
 オアシスを見つけ出せただろうか?
(きっとそうだろう)
 不慣れなヒューズ達とは違って、ここで暮らす人々なのだ。けれどそれよりも先に、炭と変わっているかもしれない。集落の中心部から、ずっとそうであるように。
 ロイはそれを見たのだろうか。見る、前に目を開けていられなくなったのだろうか。
(どちらでも同じだ)
 見なければ存在しないわけじゃない。
「そこに座れ」
「そこ?」
 ロイが瞼を開きかけて、小さく声をあげた。痛みがあるらしい。もう塩の染みついたような床に、新しい雫が落ちる。
「……ここだ」
「っ、ああ」
 手を取ると驚いたようだった。予告もなしに触ればそうなのだろう。だからといって、ヒューズは繊細な気遣いが自分に似合うとは思わなかった。そのうちロイの目も治るか、あるいは感覚でヒューズの動きを探れるようになるだろう。
 ロイにしても、気遣って欲しがるとは思わない。いつもの通りの雑な行動で、ヒューズはロイを寝台に座らせた。粗末で生活感のあるその場所を、見なくてすむのは幸いだ。
(……馬鹿らしい)
 どうもロイを羨ましがっている自分に気づく。
「目、開けて上見てみろ」
 いかにも阿呆な結論に達しそうで、ヒューズはとりあえずの行動をした。診たところでわかるわけではないのだが。ロイもそう言うかと思えば、大人しく上を向き、瞼をあげようとしている。
 ロイも不安なのだろう。当たり前だ。当たり前のことが、たまに見えない。
(だから)
 戦場は嫌いだ。
「ヒューズ」
 開いた瞼をすぐに閉じて、また涙を落としながらロイが言う。
「生きてる匂いがする」
 ああ、とヒューズは答えた。顔を顰めたところで、彼には見えなかっただろう。わずかにだけ覗いた瞳は、少しくすんだ色をしていた。いつも小憎らしいほど真っ直ぐな、あの瞳はない。
「そうだな、目は閉じられても」
 頬をさする。触れられていると行動が読めて安心するのか、わずかに擦り寄る様子を見せた。
「鼻は閉じられねえな」
 同じに不幸なのだと当たり前に気づく。それは知らずにすますべきことなのか。考えたくもなく、ヒューズはロイの鼻先に口付けを落とした。
 空気でわかったのか、ロイは驚かなかった。



 目を閉じていても、熱が瞼の裏で燃えている。意味もなく涙が落ちたが、何よりも乾きが危機的にならないかが不安だった。おまけに触れてくる手が撫で、さすり、熱をまた上がらせている。
 干からびさせようという魂胆なのだろう。
「ロイ?」
 笑ったのを気づかれたようで、ヒューズが呼びかけてくる。なんでもない顔をしたが、相手の表情はわからない。そっと目を開いてみるが、ぐちゃぐちゃの形が見えるだけだった。じわじわと熱があがりそうで閉じる。暗闇にも慣れはじめていた。
「なぁに、やってんだか……」
 匂いを感じている。ヒューズは何も言わなかったが、よっぽどろくでもない景色なのだろう。平穏な、太陽に晒されたシーツの匂いがする。昨日までここで。
 誰かが眠りにつき、平和に目覚めていたのだ。自然に、当然のように、間違いなく。そんな匂いがしている。笑いあう家族の声が聞こえた。
 平和でないのは、不自然なのはこの場では、ただ二人が交じり合う音と匂いだけだった。だから、終わりになりそうにない。
 ここに居たくないのだ。
 じれったいヒューズにロイが感じたのはそういうことだった。だからといって外に出るわけにはいかない。冷えた部屋の中でも、外よりはずっとマシだ。もしかするとこうしていても、危険なのかもしれないが。
 実際、喉の渇きが痛みになりはじめている。冷えて凍えたような喉だ。
 この男はそうではないのだろうか。
「ヒューズ」
 呼びかけると近づく雰囲気があった。手を伸ばす。触れたのは頬だろう。やわらかく、思ったほど冷たくはなかった。
「なんだ?」
 唇が動いたのがわかり、ロイは思わず笑った。動いているさまを触感で知るというのはおかしなものだ。不可思議だった。
「寒くないか?」
 答えようとして喉が動いた。触れて確かめて、ロイは愉快になる。喉にあてた手をずらして、胸のあたりにまで落とした。上下する。もう片手が額に触れて、髪の一筋をすくっていた。
「……寒いか?」
 問いかけに問いかけが返る。そんなことも、ロイの意識にはもうなかった。幻聴も現実もなかった。てのひらの触覚だけが全てで、あどけなく触れていく。熱を高めるものではない、ただ、確かめる触れ方だ。
 だというのに、ヒューズが呼吸を乱している。
「こら、ロイ」
「おもしろいな」
「何が」
 てのひらは髪の生え際を辿り、耳に触れた。ヒューズはそれをやめさせることはない。彼の手がどうしているのか、少し気になった。
「女性に一度、したことがあったよ。目隠しをして」
「……まあ、いいが」
 呆れたような声が返る。そのくせ身体の奥で混ざった彼は、逆の反応を示した。ふと、ロイは自分の声が掠れていることを思い出した。
「ロイ?」
「目隠しを」
 擦れ合っていることすら、どこか危なっかしく思える。何かひとつがあっただけで、消えてしまいそうだった。涙がまだ流れているのは、もう忘れてもいいだろうか。
「するのもされるのも、不安なんだ」
「……ああ、わかる」
 苦笑した雰囲気。だから苛ついているわけでもないのだろうが。
「本当に何もないんだと思えれば」
「楽なんだろうけどな」
 熱が下がった。喉の渇きを自覚した。終わりのなさはつまり、始まりのなさを示している。太陽の匂いのするシーツが、けだるい匂いに書き換えられている。現実的な危機感は、まだ水を落としてやめない。
 ロイは起きあがった。
「喉が痛いんだ。ヒューズ」
「水を」
「ああ、我々の戦利品はどこだ?」