それじゃあ、と鞄を持ち上げる。衣類から身の回りのもの、女性からの贈り物をつめた鞄だ。肩にかけると少しよろめいた。体力をつけないとな、とロイは思った。このままでは生きていけないことが確実だ、とここ数ヶ月で悟ったのである。 軍というものが、ここの主人のような相手であれば、ということだが。 「お世話になりました」 屋敷を出、見送りの彼にぺこりと頭を下げる。どんな相手だろうと、世話になったことは違いない。くらくらするくらいに。屋敷をあとにすることに、多少の感慨を感じるほどだ。 自分は善人なのだろうか、とロイは思った。それとも慣れとはかくも恐ろしい、と、そういうことかもしれない。 「あぁ、頑張ってきなさい。社会は厳しいぞ」 「はは」 「避妊だけはしたまえ」 笑顔でロイは頷いた。今更、これくらいで赤くなったりはすまい。それこそ相手の思うつぼである。ちょっとからかって、楽しんでいるだけなのだから。 「孫の面倒まで見れないからね」 付け足された言葉に、少し顔をしかめた。子供になったつもりはないが、ではなんだ、と言われれば、それに類するものだというしかない。実際、そのくらいかわいがられてきたと知っている。 かわいがられた側がどう思ったか、はともかくとして。 「真面目に勉強してきますよ」 ロイは恩知らずではない。母子二人で暮らしてきたので、人の優しさは身にしみる。相手が男で、母に気があったのだとしても、ありがたいことに違いはなかった。食費に事欠く時などは、軟派男が神に見えたものだった。 だから女性を大事にするロイだったが、男が嫌いなわけではない。もっとも、貧乏な男となると、近づきたくないという意識があった。切ない話である。 「あまり、無理はしないように」 やわらかく目を細めて、男がロイの頭に手を置く。最後だから、とロイは大人しくしていることにした。 「そのうち保存食でも送ろう。成長期には栄養が大事だ」 「……自炊禁止ですけど」 楽しげな呟きに割って入る。軍に所属している男が、そんなことを言い出してどうするのだろう。 「だから密輸だよ」 に、と笑う。この男がどのくらいの地位にいるのか、ロイは知らない。というか、聞きはしたのだが、頭をすり抜けた。階級などにとんと関わりのない生き方をしていたので、一番上ではないけれど、どことなく偉そうだ、という以外わからなかったのだ。 今も実は、あまり興味がない。目の前の勉学に魅せられているロイだった。細かいことは学校で教えてくれるものだろう。 「それから、寮についたら眠りたまえ。ひどい顔だ」 「はい」 男の言葉に肩をすくめる。ギリギリの前日まで、研究成果のまとめに終始していたのだ。なんとか提出したものの、お情けで合格をもらったようなものだった。 「あの、できれば」 「研究のことかね?」 「実証がまだ半分しかできてないので、暇を見つけてやりますから」 ふむ、と男が考え込んだ。落ち着かない気分でロイは答えを待つ。半端なままで放っていくのでは、どうも気になっていけない。 「職場の錬金術師に見せてみたがね。君の年齢も言わなかったが、あれで充分、見所はあると言っていたが」 「実践するには問題があるんです。正確性に欠けるし、もしかすると冷却水の元素を取り込んでまずいことになるかも」 しげしげと男はロイを見ていた。それから口を開く。 「君」 「はい?」 「そんな危険な実験を、うちでしていたのかね?」 「は」 暗い沈黙が通り過ぎた。それでは、と背を向けたくなる。確かにまかりまちがうと、部屋ひとつ吹っ飛ぶくらいのことは。 していた。 「ええっと、ああ、けど、たぶんおかしな動きになったらわかるし、」 「ロイ・マスタング君」 「……はい」 腰が引けつつも顔を上げた。動揺したせいで鞄の重さに負けそうになる。くらついたロイの肩を、男が軽くつかんでとめた。 「軍の施設を吹っ飛ばしたら、ただではすまない」 「わかってます」 「休暇には帰っておいで」 ふいをつかれて肩の力が抜ける。ロイは不思議に首を傾げた。怒っているのか、と思えば。 「うちなら多少壊れても、君が直してくれればよしとしよう」 ロイはまばたきをしてから、困ったように頭を押さえた。男の言葉は予測外のものだ。元々、長らく世話になる気もない。仲良くなった女性には、たまに会いにくるつもりではあったが。 だいたい、そういう話ではなかったのだ。たまたまロイに住処がなかった、応急的な解決だった。 それだけ気に入られたということなのだろう。 「……」 ありがたいことではある。上目に男を伺いながら、けれどロイは困り切っていた。これ以上、世話になっていいものか。とことんまで飼われる気はなかった。そうでなければ、役にもたつまいと思うのだ。 「マスタング君」 「はあ」 どうにも曖昧な返事が出る。男が笑った。 「恩を返しにきたまえ。寂しい男にね」 わしゃわしゃと頭を撫でられて、そうなると返す言葉はひとつだった。そこかしこに力を入れた、実に複雑な顔でロイは笑い返した。 「……子供にそんなことを言うと、そのうち噂になりますよ」 「君もな。……さあ、そろそろ行きたまえ」 「はい」 よくしてくれた屋敷の人々には、すでに挨拶をすませてあった。 肩にかけた鞄を持ち直す。男から離れると、大きすぎる屋敷を感じた。どう考えても分不相応な、慣れない環境だった。おまけに、主人からは連日からかわれる。 「ありがとうございます」 難しい顔をしながら、ロイはそれでも礼を言った。目を細めた男が、自分に投資をしているだけだと知っていた。無駄に終われば、ただ無しにしてしまうのだろう。 しかし恩は恩であるし、ロイは男を嫌いになれない。きっとまた、ロイが男の権威や立場を尊敬していることを、男も悟っているだろう。そんなものだ。 裏側でそうわかりながら、ロイは最後に手を振った。男が手を振り返す。けれどそれは当然のことで。互いにとってあまりに当然のことで、悪気も何もなかった。恩義を感じさせる側も感じる側も、あるようにあっただけのことなのだ。 「また、くるよ」 肩をすくめてロイはそう呟いた。前にあるものへの興味に満ちていた。けれど、居心地のいい場所には帰ってくる。間違いのない理屈だろう。 |