物心ついた時から、母親とは守ってくれるものではなかった。

 ロイ・マスタング。彼には父親がいない。厳密には存在しなかったはずがないので、ただ、母が教えてくれないということだ。覚えていないのかもしれない。そしてまた、彼も問い掛けることはなかった。幾人もいたうちの一人なのだろうと、おぼろげに理解するだけだった。
(必要が、ない)
 どんなろくでなしだろうと構わない。自らが母の胎内から生まれ出ることができた。それだけで感謝したっていい。ただ、目の前に現われたのなら必ず、軽蔑以外の感情を持たないだろうが。
 今よりもまだ小さな頃、そのことでからかわれたこともあったが、ロイには母親がいればよかった。言わせたい奴には言わせておく。泣き出せるほど、子供な自分を知らなかった。
 物心ついた時から、母親に守られたことはない。
 愛情がなかったわけではない。また、彼女がそうしたいと思わなかったわけでもない。彼女はあまりにも弱く、ロイは大人で強かった。近所の錬金術師の退屈しのぎに教えられた技だけで、自分の身を守ることができた。そして母親にそれを知らせないほどには、ロイは賢い。教えを与えた錬金術師でさえ、ロイの才能に気付かなかっただろう。
 ロイは自分の力を、彼女を守るためのものだと理解している。そして、息子が自分を置いて行くのではないか、という彼女の不安に苦笑するのだ。
 自分は男に夢中になれば、息子のことなど忘れてしまうくせ。けれどそれは彼女のせいではない。彼女はかわいい、そういうものなのだ。
(一緒にいるよ)
 そのためには、才能も知識もひけらかす必要はない。ロイはただの小さな騎士として、母親の恋人たちに罪悪感を与えるくらいのものだ。表向きは。
「母さん」
 中庭で、彼女は今日も新しい男に擦り寄っていた。ふわりと笑んだ顔はとても子持ちの女とは思えない。少女のように、無邪気で残酷だった。
「ロイ」
 にこりと笑う。そこには何も裏はなく、本当にロイを慈しむものだった。ただ、母親が向ける、それだけで精一杯の愛情ではない。
「表でね、助けてくれた方よ。りんごは傷んでしまったけど……」
 また転んだのだろう。想像して、ロイはたとえようもない愛おしさを感じた。誰かに守られていなければ、まっすぐに生きていけない人。完璧なほどの美しさを身につけたのは、本能というものかもしれない。
「……こんにちは」
 少しためらって見せて、人見知りな子供のように挨拶する。伺った男は彼女よりもだいぶ年上だった。深い仲になることはないだろう。いくら金を積んでも、気に入った男としか生活を共にしない女だ。
 今はいつもの通りに、発作的な恋に落ちているのかもしれないが。
「あぁ、こんにちは」
 母親の恋人というよりは、祖父のような笑顔が落ちる。頭を撫でられてロイはにこりと笑ってみせた。悪くない。別に良くもなかったが、たまにある、とんでもないろくでなしよりはマシだった。
 何しろ彼女は男を見る目がない。見る以前に恋に落ちてしまうのだから仕方がない。そして騙されては捨てられ、付け入られては騙される。そんな具合だ。それでも男という存在を憎むことはない。
 それがまた彼女のかわいいところだ。おかげで裕福な実家を追い出され、慰みにあたえられたこの屋敷に二人で住んでいる。三人になることもあったが、それは長くは続かなかった。
「母さん、りんご」
 ものほしそうに見上げて、ロイは手を伸ばした。母親はとてもかわいらしく笑って、小さな手にりんごのかごを握らせる。その重さにふらついたふりをして、立てなおす。
「気をつけるのよ」
 背中に聞こえた声は、澄んで聞こえている。ロイよりもずっと子供の声だ。彼女を悪く言う者も、彼女を騙す男も、死んでしまえばいいと思う。笑う者はみな、素晴らしいものに気付いていないのだ。
 ロイは母親に手をふって屋敷に戻った。キッチンでりんごを洗う。すぐに病気を起こす彼女に、このまま齧らせたりなどはできない。してしまうから、問題なのだが。
 きれいに泥は洗い流しても、打ちつけた部分は弱っていた。ただでさえ黄ばんだりんごのようだった。また、ていよく悪いものを押しつけられたのだろう。楽しんでいる彼女の目では、そんな比較などできようはずがない。
(通り角のおじさんかな……良いものを押しつけられるよりはいい。未練があっても、困るしね)
 りんごに手を滑らせる。水分が足りないかもしれない。あとは、空気が絡みついて酸化してしまっている。軽く振って感触を確かめてから、りんごを食卓の上に乗せた。
 濡れた指先でりんごの周りに円を描く。構築式はすぐに思い浮かべられた。うんうんと悩んでいた、恩師の姿を思いかえして苦笑する。けれどロイには別に、そこまでの才能が必要ではなかったのだ。
 本当は、わかっている。
(馬鹿だったらよかったんだろうな)
 そうすれば彼女も、息子を実家に取られるのではないかと不安になることはない。ロイもまた、馬鹿らしく素直に彼女のものでいられただろう。親戚の訪問に脅えることもない。図書館に通うこともなく、能力を見初められることもないのだ。
(……それでも)
 溜息をつく。自分は彼女の傍を離れることはないだろう。安心するといいのだ。彼女を見捨てていった、馬鹿な男のようなことはしない。大事に、大事に守りつづけるのだ。
 ロイは目を細め、描きこまれた錬成陣の上に指を乗せた。不可思議な光に包まれて、りんごが元の鮮やかさを思い出していく。自らも触れたくなるそれに満足して、ロイは手を伸ばした。
「見事なものだね」
 指先がびくりと揺れる。ロイは顔を顰めて振り向いた。
「それは誰に教えて貰ったものかな」
 逃げ場を探すようにロイの視線がうろついた。それに構うこともなく、男はロイにしっかりと目を合わせている。
 子供のごまかしをしようとして、ロイはひどく恐ろしい気になった。耳元で冷たい風が通ったような気がする。背中に汗を感じたが、そのまま屈するわけにもいかなかった。ただの、大人のこけおどしだ。なにもかもわかっている、と嘘をつくのだ。
「近所のれんきんじゅつしの、おじさんだよ」
 怒られるのを脅えたような顔をして、食卓の影に隠れる。ふむ、と男が顎に手をあてた。ロイを緊張させる、考える間を置いてから言う。
「私は図書館に用事があるのだがね」
「……え?」
 思わず問いかえしていた。優雅な調子の、繋がりのわからない言葉に、どう反応したら良いのかわからない。
「母上に伺ってみたが、どうやらご存知でないようだ。君ならわかるだろう、と」
「……母さんは」
「買い忘れがあったらしい。あぁ、無理なら構わないよ。もちろん、知らない男についていくのは危険なことだろうね」
 そういう人ほど危険なのだ、とロイは思った。しかし焦りも感じている。まかり間違って錬金術のことを、母親に漏らされても困る。
「いいよ」
 恐る恐る、食卓の影から出て言う。
「案内してあげる」
 男は不思議に目を細め、わずかに頷いたようだった。ロイを推し量ろうとしているようで、そのくせ嫌味なところがない。柔和な表情は、本当に孫に向けるようなものだった。



「実は私は」
 背中で告げられた言葉に、びくりと身体を揺らした。来た、という気分だ。今まで何も言わずについてきていた男が。
 最初の曲がり角のあとで話し出したのだ。
「この付近に賢い子がいるというのでね、奨学金の話をすすめにきたんだ」
「……奨学金」
 唇を噛む。確かに母親に近づくには毛色の違った男だ。
「卒業後は軍に在籍することが条件だが、報酬は悪くない。その年から通っていれば、上に立つのも夢ではなかろう」
 無意識に歩く速度を増しながら、ロイは舌打ちした。どこかの誰かにはありがたい話なのかもしれないが、ロイにはうざったい押しつけでしかない。うまく断らなければ、さきほどのことを母親に教えられるのもまずい。
「人違いじゃないかな?」
 石畳に踵を鳴らしながら答える。言ったあとで後悔した。あんまりに子供の台詞ではない。
「いや、間違いではないようだ」
 男は静かに言った。
「君が思うほど、ぼろがでていないわけではない。まあ、仕方がないのだろうが……相場を知って、言質をとって値切るような子供がいれば、目立たざるをえまい」
「僕、そういうの得意なんだよ」
 これは誤魔化しきれないと考え、ロイは肩を竦める。話がそこまで広がっているのなら、一度きちんと追いかえしておかなければ。家に押しかけられては、また母親が不安になる。
 ロイを抱きしめていなければ眠れないほど。そういう、不安定な女性なのだ。誰も彼女をそんな状態に置くべきじゃない。
 ふむ、と男がおかしそうに呟いた。
「そうまで生まれ持った力があれば、試してみたいと思うものではないかね?」
「……ちっとも」
「勉強は嫌いかな」
「きらい」
「ならば、これは先ほど思ったことだが。君ならば錬金術師としての道もあるだろう。勉学は必要だが、こちらの道は、机にかじりつくだけの固いものではない」
「それも嫌だ」
 誘いをかけてくる言葉が、どうしてか腹立たしかった。また歩く速度を増す。もちろん男が、子供の足に負いつかないことはなかった。
「母上のためかね」
「……」
 ロイは答えなかった。子供らしい感性で、離れたくないのだと思ってくれれば。それほど楽なことはない。善人ぶった勧誘者は、それでだいたい理解する。
「わからないでもないな……彼女は善人だ。だからかわいい」
 今更に何を言うのかと、ロイは眉間に皺を作った。彼女を目当てにきたわけではないだろうに。
「それは、馬鹿ほどかわいいのと似ている。守ってやりたいと、思うのだろうな」
 まばたきをしてロイは顔をあげた。そこまで率直に言われたのも初めてだった。怒りもわかない。ちらりと向けた視線を、男が楽しげに見かえしていた。
「ああ、心配は無用だ。さきほどのこと、母上には言うまい」
「何それ」
 意識してそっけなく答える。提案に喜んで頷いてしまえば、弱みを握らせることになる。知られたくないのだ、と教えることは得にならない。
「だがね、ロイ・マスタング君」
 名を呼ばれたことに、びくりと身体を震わせた。それほどの迫力だったとは思えない。静かに、ていねいに紡がれただけだ。それでも何故か、足を止める。振り向かされる。従いたくなるような声だった。
 そして視線を合わせれば、感じるのは恐怖だ。賢くともまだ幼いロイは、そのまま逃げだしそうになる。それを留めるのもまた、男の視線だった。
 怖い、と思う。
 瞬間に男が視線を緩めた。どこか満足そうに頷いた、意味がわからない。ロイは呼吸を取り戻して安堵する。
「君は必ず、上を求めずにいられまいよ。能力を持ちながら埋もれることを望む者は少なくない。だが、君のそれは押さえられているだけではないか」
「……何、言ってんの」
 笑おうとしてできなかった。その言葉の意味を理解してしまう自分を恨んだ。決して頷くわけではない。肯定するわけではない。
 ただ、小さな身体を震わせるような痛みを感じた。どこから来ているのか。目の前の男は未だに、見れば普通の男に過ぎないのだ。
「私の下に来たまえ。そのうち使ってあげよう」
 横暴な言葉に、ロイが感じたのは欲求だった。胸を押さえる。それに従ってしまいたい自分がいる。
 けれど、どうしてもそれを留めてくれるのは、かわいい女の姿だった。
「今は離れられないというのなら、いつでも。ここに来るといい……そうだな」
 差し出された名刺を、震える手で受け取った。困惑しながら文字に目を落とす顔は、それこそ子供のものであったかもしれない。大人に逆らうことのできない、頼りない子供の。
「君は若い。十年は待てそうだ」
「……行かない」
 堅い唇を押しきるようにして言った。男が笑う。
「有能すぎるものが埋もれているには、それなりの枷が必要なものだ。……ロイ。いつまでも同じ枷が用意されてはいまい」
 悲しさを感じさせる言葉に、ロイは顔をあげた。声だけがそこに残っている。手の中に残った紙は、正確に、間違えようのない番号を示していた。握りつぶそうとしてためらう。ぼんやりと見たあとで、ロイはそれを自分が覚えてしまったことに気付いた。
 苦笑する。
 どうせそのうち、忘れてしまうだろう。こんなものは必要がない。自分は母親とずっと一緒にいるのだから。離れられるわけがないのだから。
「……」
 予言めいた言葉もまた、耳に染みついている。いつも邪魔にしたこの才能を、使いこなすことを考える。けれどすぐに頭を振った。たまらなくなりそうだった。望んではいけない。
 あまりにも魅力的なものは、痺れた痛みとなって胸に残るのだ。