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……どうしよう。 そよそよ。涼やかな冷房の下、目元涼やかすぎる人物を見下ろし。銀次は思った。 「……どうしよう」 言葉でも呟いてみる。周りを見回すが、どこからも救いは現れなかった。諦めよう。波児の呼びかけに、ほいほいつられた自分が悪いのだ。 (だって、冷房使わせてくれるって……いうから……) 陽が落ちてからも、風のない日は熱が淀んでいる。いつもならば追い出される時間に、逆に呼び出しがかかったのだ。依頼ではない。どちらかというと、ボランティアだ。 『ツケの利子だとでも思え。蛮? アイツは連絡つかねえ』 波児の気持ちもわからないでもない。閉店後に用事があるということだったし、まさか病人を放り出すわけにもいかない。だからといって病院に運ぶには、あんまりにも……。 「らしくない」 呟く。どちらかといえば、病院に勤めてそうな名前だ。名前だけは。名前だけでないのかは、銀次は知らない。ひとまず彼の持つ刃物が、手術に使われるものだとは知っている。 それ以上は知らない。 銀次はぐったりして、頬擦り寄せていた氷水を飲んだ。涼しい。とりあえず涼しい。それで納得して、少し幸せな気分に浸ってみた。冷房がそよそよ。 (眠ってるんだし) 害はない。波児は「近付くなよ」と伝言を残していった。その真意はわからないが、それ以前に、銀次は近付こうとは思わない。 じっと見る。眠る姿というのは、案外にあどけないものだ。並べた椅子の上。目深に被った帽子がないせいかもしれない。コートも脱いでどこにやったのか、しかし、乱れた黒い上着はそれでもボタンを止めている。 襟元が開いていた。彫刻めいた、精密な首筋が見えている。 (ドクタージャッカル) まったくらしくない、彼の姿だった。無防備に眠ると、起きている時と別の意味で恐い。まるで、死んでいるようだ。 (しかもゾンビみたいに起きてきそうな……いやいや) どうやら暑さにやられたらしいことは、ひどい汗を見ればわかる。時折、気怠く声をあげ、わずかに身じろいでいる。ぐっしょり、白いシャツの襟元が濡れていた。 (泳いだみたい) 銀次は思わず、赤屍の水泳中の姿を思い描いた。しかしどうにも、黒コート以外の姿というのは思いつかない。水を舞うコート。冗談にしか思えず、銀次は頬の内側を噛んだ。 (暑さには弱いのかな。なんか、身体冷たくて大丈夫そうなのに) ああ、と思う。 (魚なんだ) なんとなく納得して、平次はグラスを口にあてた。かり、と氷を噛む。冷たすぎるそれが一瞬、痛覚を麻痺させ、それから痛む。最後には冷たさだけが残った。 喉に通る、ひんやりした感覚。 「うん……」 気持ちがいい。 「……」 ちら、と赤屍に視線を向ける。この涼しい中でも、苦しげに眉を寄せている。どうも暑そうだ。自分ばかり気持ちよくなっていても仕方がないと、銀次は立ち上がった。 「えっと……冷房冷房」 コントローラーを探し出し、温度を上げる。 「これでよし」 なんかあんまり変わった気がしないけど。そのうちそのうちと呟き、銀次はカウンターに戻った。そよそよ。心なしか冷たさが減ったような気がする。 (慣れてきたんだな) あんまり冷やしすぎてもいけない。氷水をつくりなおし、ほのほの幸せ気分になる。ラジオもテレビもないのが退屈ではあったが、外は地獄だ。文句はなかった。 そよそよ。いつ起きるのかなあ恐いなあと思っては、それを忘れ、平和的に過ごす。そのうちに首を傾げた。 「やっぱ、なんか、暑いかも」 入ってきた時より、暑くなった気がする。身体が慣れたのだと思い、どうしたもんかと考える。暑いのも寒いのも、病人には身体に毒だ。人のいい銀次は、とりあえず怖さを追い払い、当人に声をかけてみた。 「赤屍さーん……」 小声。 「おかげん如何ですかー……?」 小声。返事はない。ものすごく嫌そうに、眉間に皺を寄せたような気がする。脅えた銀次には悪魔のように思えた。 (いや、わかってるんだけどさー) いくらなんでも、ここで銀次を刻んじゃうことはない。それなりの節度なのか、それともエネルギーの無駄と考えているのか、仕事中でなければそんなことはないのだ。 しかし条件反射的なそれだ。怖がるのを、銀次自身もどうしようもない。顔を見ると刻まれる気がする。が、今は押さえておこう。相手は病人だ。病人。 「あ」 善人であるが気が利かない銀次は、ようやくそこで思い当たった。 (暑そう) あまり触れるつもりはなかったが、上着くらいは脱がせてやったほうがいい。そのことを思いつくと、あっさり、銀次は波児の言葉を忘れた。ついでに怖さも忘れた。 単純である。 「赤屍さん」 そろそろと後ろから近付く。顔を覗き込もうとして、さっと、何かが頬の傍を通ったのが見えた。 「……」 ちり、と濡れた感覚が落ちている。かすかな痛み。 「……赤屍さん」 「なんですか、銀次クン」 起きてた。しかも、メスを向けている。きらきらして鏡のようになったメスと、銀次はにらめっこしていた。 (あう) 近付くなというのは、こういうことらしい。赤屍は指をかすかにも揺らしはしなかったが、いくらか辛そうだ。そうでなければ、メスを投げつけていただろう。避けられた時のことを考え、突き付けるですませているのだ。 「お暑そうでらっしゃるので」 ひきつった笑顔で銀次が言う。 突き付けるだけ、でも。充分な圧力があるものである。おまけに苦しそうな表情を一瞬緩め、赤屍はにこりと笑った。 「お気遣いには及びません」 「でも」 きらきら、目の前で静止しているメス。 じっと見つめているうち、銀次は慣れた。そうそう緊張状態を続けられるものではない。あまり緊張を続けていればキレる。裏の仕事をするものなら、すぐに慣れてしかるべきだ。 もっとも、気まで抜いてしまうのは論外ともいう。 「汗、かいています」 しかし、こうしてメスを突き付けられているのは、存外安心なものだった。赤屍のもう片手はテーブルに載っている。身体を支えているのだ。 新しいメスが飛んでくる心配はない。銀次はそーっと手を伸ばし、指先で頬をなぞった。赤屍は何の反応も見せない。メスは動かない。 瞳を覗き込んで、ああ、と銀次は思った。 「辛いんでしょう」 赤屍は表情もなくまばたきをした。意表をつかれたようにも見える。気のせいかもしれない。 「いいえ」 「辛そうです」 「お気遣いには及びません」 強情だ。銀次も食い下がった。 「でも」 「平気です」 じりじり。何をそんなに意地張っているのだろう、と銀次は思った。上着くらい脱げば良いのだ。上半身の裸くらい、前に見た。 「あ」 「なんですか」 赤屍が視線を落とし、メスを見た。気怠げで暑そうなのだが、どこか陶酔したように見える。先入観、と銀次は心で呟いた。 「後ろ向いてましょうか」 「……なんでですか」 呆れたようだ。不可解に寄せられた眉に、銀次は力を抜いた。 (そうそう、調子の悪い時は不機嫌になるよ。我が侭も仕方ないなあ) などと、かなり度胸のあることを考え、にっこり笑う。 「あ」 「なんですか」 面倒そうに赤屍が答える。だいぶぐったりしてきたようで、テーブルについた手が震えていた。かっくりいきそうだ。 「暑くないですか」 その手を見、銀次は三歩ほど下がった。病人を刺激してはいけない。家族の手厚い看護、などというものと銀次は無縁だったが、だからこそ憧れのような感覚がある。 相手がドクタージャッカルだ、ということは、とりあえず忘れた。今の銀次は、家族的介護というものにどきどきしている。 いかがわしそうに赤屍が視線をあげ、ゆっくり手の力を抜く。メスをしまった。座りなおして椅子にもたれかかり、気怠く髪をかきあげた。頬に貼り付いた髪が、ずりずりと引っ張られ、剥がれる。 物憂げな唇が、最小の動きをみせた。 「暑いです」 なんだか印象的なシーンだった。映画のようだ、と銀次は思う。なんとなく眺めてしまっていた。 「銀次クン?」 「は」 ぱちくり瞳をまたたかせ、視線をあわせる。するとそろそろ疲れてきたのか、どうでもよさそうに赤屍が言った。 「冷房」 「ははははいはいただいまっ」 「はいは一回」 開き直っているのかもしれない。 「はあい」 しっかり返事を返し、かちかち、設定温度を上げる。その間に赤屍は上着を脱いでいた。振り向いてぎょっとする。 「えっと」 「なんですか」 飄々としたものだ。この暑いのに、シャツの上にセーターを着ている人の台詞ではない。 「なんですかというか、なんですかそれは……?」 「ああ」 ぼんやり自分の姿を見、どうでもよさそうにセーターを脱いだ。端を掴み、両手をあげて首を抜く。そんな日常的な仕草が、嫌になるほど似合わなかった。 が、とにかくようやく、涼しげなシャツになる、のだが。白いシャツの下、何かが透けて見える、のは。 (見間違いでしょうか) 「暑いです」 「……そりゃ暑いでしょうそんだけ着てれば」 黒スーツだけでも充分だと思う。何をそこまでやることがあるのだろうか。平次はしばらく悩み、それからぽん、と手を打った。 「修行ですか」 「何の修行ですか」 真顔で問い返された。自分が間違っているような気になる。 「え、じゃあ」 こっとり。弱々しく首を傾げて問いかけると、仕方なさそうに赤屍は息をついた。その息もまた、暑そうだ。シャツに手をかけ、ボタンを外している。その下に見えるのは、果たして。 「はっ」 「暑いですね……ほんとに。冷房つけてるんでしょうね」 ババシャツだった。 「……」 銀次はちょっと目眩がした。似合わないというか、いっそまったく別の生き物に見えた。 「銀次クン?」 「はい……」 ぐったりした銀次は、珍しくも元気なく答えた。なんだか暑い。おかしい。どんどん非快適になっているのではないか、そんな気がした。 なぜだろう。 「設定温度を下げてください」 「あ」 そうか、と思った。 「すみません、上げてました」 幸いにも、赤屍はメスを投げる気がないようだった。そんなことをして銀次に死なれたら、誰も温度を下げてくれなくなるからだろう。 「それでその」 珍しく気を利かせて、というか、怒りを恐れて、氷水をテーブルに置きながら銀次は問いかけた。 「なんだってそんな、ほかほかな格好を?」 赤屍はぼんやりして、テーブルの上のグラスを見ていた。から、と、入れたばかりの氷が音をたてる。 その視線が嫌に熱烈なように見えて、銀次は首を傾げた。 「……赤屍さん?」 「ああ……」 呼びかけると思い出したように、グラスに手を伸ばす。ひんやりした感覚を確かめるように触れて、持ち上げた。口にするのかと思えば、頬に押し当てている。 (……この人) 思わず、銀次は頬を熱くした。気怠げな仕草は妙になめまかしく見える。なまじ整った容姿をしているものだから、どうにも、いけない。 さっさと、すっぱり、躊躇いなく飲んで欲しい。そう望むのに、赤屍はそれきり動きを止めてしまった。焦がれるような視線をグラスに向けている。いやに悩ましげな溜息をついた。 名残惜しそうに、グラスを頬から外す。冷えた頬は色を失っていたが、冷たさはこれ以上増しようがなかった。 「何?」 振り切るようにグラスから視線を外し、赤屍が問いかけてくる。ぼんやりした瞳のままだ。 「……何って」 「呼びませんでしたか」 なら、それでいいと言い出しそうな調子だ。指先が伸びて、グラスに触れた。冷たさを感じたのか、ひく、と一瞬動きをとめる。 「……飲まないんですか」 伺うように言う。赤屍は唇を噛み、なぜか救いを求めるように銀次を見た。それから、そんな自分に呆れたように口元に笑みを刻む。 「はい」 疲れているようだ。椅子の背に体重をかけているものの、今にもずり落ちそうだった。どうにも支えてやりたくなるような、そんな様子だ。 だからといって相手はあの、赤屍蔵人なわけで、そのあたりが問題だ。 「飲んだほうがいいですよ。水分補給」 「いえ」 「でも」 赤屍は叱られたように目を伏せた。調子が狂う。銀次はできれば視線を逸らしたかったが、できない。 恐い者見たさというものだろうか。 「体調管理ちゃんとしてないと。赤屍さん、恨まれてそうだし、色々と」 「それはそうなんですが」 ちょっとした皮肉はさっぱり通じず、簡単に頷いた。 「まさかハンディだとか」 「いえ」 気怠そうに、赤屍はテーブルに手をついた。恨めしげに氷水を見ながら、腰を曲げて半身を落とす。本気で辛いらしいと銀次は思った。 あるいは馬鹿にされているのか。とにかく気を張る力がないか、その気がないかのどちらかだ。 「体調管理です。私なりの……この間、ずいぶん血を流してしまったから」「え、赤屍さん、貧血ですか?」 「いいえ。そんなことはないのですが……。ずいぶん薄まっているので、仕事の前に血液中の水分量を……」 「……はあ」 赤屍の視線が銀次を見、「ああ、そうか」という顔をした。これに話しても仕方なかった、という、そういう表情だ。銀次は少しむっとした。まあ、確かにそれはそうなのだが。 皮肉でもなく、しかもあからさまだ。 「つまり、汗をたくさん出すと、仕事に都合がいいんです」 「え、でも」 「君には適用されないと思いますが」 「敵よう?」 「私だけの都合ということです」 なんだかよくわからなかったが、銀次は頷いた。 「ボクサーみたいな、あれですね」 赤屍は銀次をじーっと見、軽く首を振った。 「まあ、そんなものです」 言葉と仕草が合っていない。銀次が追求する前に、ぺったり、赤屍は頬をテーブルに押し付けた。気持ちが良いらしい。目を細めている。 小動物のようだ、と銀次は思った。自分もよほどそう言われることがあるが、なんだか、違うタイプの小動物だ。 「でも、あんまり無理しちゃダメですよ」 叱るように言う。怒るかと思えば、頬を潰したままで笑う。 「わかってます」 「お水、飲んでください」 「いいえ」 当然のように答え、目を閉じている。なんとなく唇を尖らせ、銀次は少し強めに言った。 「飲んでください」 「結構」 「でも、赤屍さん」 「いりません」 「オレの前でそんな弱いところ見せて、良いんですか」 ほわ、と赤屍が瞳を開いた。まったく気迫は通じていないようだ。どうにも納得できない。そうそうギラギラされても困るのだが、こうまで気を抜かれると、なんだかなあという気になる。 平和的なのはいいことだが、赤屍にそういうつもりはないとわかっている。ただ、歯牙にもひっかけていないだけなのだ。それが、さすがに銀次にもわかった。 赤屍が銀次をぼんやり眺め、面倒そうに笑った。 「私には殺すなといっておいて、私を殺すというのなら……見直します」 「み……見直すんですか」 がっくりきた。 「利己的なのは悪いことじゃないですよ」 「殺すのはどうかと思いますが……」 「でも、実際問題、」 赤屍が声を止め、こほ、と咳をした。喉が乾いているのだ。銀次はグラスに視線を向けたが、結局その続きを待った。なんだかまともに押しても、飲んでくれない気がした。 当然、そのくらいには強情だろう。 「君が私に殺すなと言うのなら、一番簡単な方法がある。つまり、私を殺せばいいということですが」 いつもなら激昂しそうだと自覚する言葉だったが、銀次はどうにも、赤屍の喉が気になってならなかった。だんだん、聞き取りづらくなっている、気もする。 「でも、それじゃ一緒だ」 何と一緒だと、言わなかったがわかったらしい。こほ、と赤屍は咳払いをして続ける。 「つまり君は、私が死ぬより、私に誰かが殺される方がましだ、と結論付けたことに……、なる」 反論もしない。詰まった言葉と、辛そうな表情を見ている。だんだん可哀想になってきた。 「でなければ……、こほ、今の私を、歩けなくするとか、指を削ぐとかくらい……」 「赤屍さん」 たまらずに近づき、銀次はグラスを持った。それを突き付けるようにする。赤屍はすぐに手を払った。グラスが落ちる。幸い、割れはしなかったようだった。 病人のすることなので、銀次は怒りもしない。弁償がなくて幸いだった、と思っただけだ。屈んで拾い上げようとする、その襟首を赤屍が掴んだ。 「銀次クン」 「……何ですか」 宥めるような調子に、赤屍の瞳が剣呑になった。今にもメスが出そうに思えたが、恐いとは思わない。声が、まだ、あんまりに掠れているのだ。 哀れにしか思えない、そのくらいに。 「この、君の手ひとつが」 襟首をきつく握っていた手が、そっと外され、銀次の手首に触れる。ほとんど指先だけで持ち上げて、自らの首に回させた。何をさせるのかと、銀次は首を傾げている。 「そう……世間の言う、かけがえのない命、を救うものだとは、お思いになりませんか?」 焦がれているような瞳だ。 それは、水に、なのだろう。けれど銀次はたまらない気分になる。指先を動かした。喉元に触れる。こく、こく、音をたてる喉だ。切り裂けば血が流れることを想像もさせない、きれいな首筋。 指先が無意識に、その血の流れを追いかけていた。赤屍はどこかほっとしたように、銀次の好きにさせている。そのまま眠ってしまいそうに思えた。 く、と戯れに指に力を入れた。喉が鳴る。赤屍の顔色は変わらなかった。このまま。 本当に眠ってしまいそうに見える。 「赤屍さん」 なんだか、銀次は哀しくなってしまった。このまま首を絞めたとしても、赤屍は抵抗もしない気がしたのだ。まるで当然のように死を受け入れる。そのほうが幸せなようにも見えた。 きっと、そうなのだろうと銀次は思った。 赤屍の思うようにはきっといかない。彼がやっていることは、世間的なモラルに沿うことではない。銀次にも理解できない。誰にも認められない。自分一人なのだ。 だから、いつ死んでも同じ。 けれどきっと死にたくもないのだろう。明確にそんなものがあるわけではない。だが、生きている気もない。 そんな匂いがした。あるいは彼が人を殺すのは、嫉妬によるものかもしれないと思った。どんな下らない人生だろうと、とにかく生き抜き、そして死んでいく、どこにでもいる彼らを。 銀次は唇を噛む。嫌なことを、 思い出す。 「赤屍さん」 呼びかける。指に力がこもりはじめていた。意識の外のことのように、赤屍の喉を締め付けている。首を振る。 手を緩めても、赤屍は気怠く、どうでもよさそうに目を閉じたままだった。 「ねえ、オレは、目の前の人が大事なんだ」 ふるりと睫が揺れる。どうしようもなく弱々しい。そのくせ、次の気まぐれにでも刃を向けて来そうに思えた。銀次は意識して無防備に、危険なほど間合いをつめた。 「それだけなんだよ。あんまり……」 現れた瞳はぼんやりしている。銀次を責めるようにも、馬鹿にしたようにも見えた。とても曖昧でわからない。人間ではないのかもしれない。銀次は思う。 しかし人間という定義など、銀次にはわからない。わかりようがない。 「あんまり、難しいことを考えると、頭が痛くなるから」 笑って見せた。赤屍は表情もない。ためらいもなく、銀次は背中を見せていた。刻まれることはないだろうと思った。そんなつまらないことを、わざわざするとは思えない。 銀次には避けるつもりがなかった。だから、赤屍は何もしない。 「赤屍さんもあんまり考えないほうがいい。なんか」 冷蔵庫から氷を探し出した。新しいグラスに入れて水を注ぐ。赤屍の前に戻り、邪気もなく笑った。 「なんかあんた、オレに似てるからさ」 客商売のようにはいかない。グラスからは水滴が落ちている。唇に押し付けたそれを、赤屍はじっと見ていた。 唇を開いて笑う。銀次はグラスを傾け、その唇に冷水を落としてやった。ぽとぽと。気にもかけず、赤屍が笑った。 「まさか。君ほど、馬鹿なつもりはないですよ」 カーヴを描いた唇の端から、ぽたぽた落ちる。前を開いたシャツに染みをつくっていった。白いシャツに、透明な水。それほど汚れたように思えなかった。 恵みを浴びている。そのくらいに。 「そうだけどさ」 銀次は笑う。そうしながら、グラスをゆっくり傾ける。赤屍は唇に水を湿らすようにしてから、屈むようにして水を受けた。たまらなくなったのか、グラスに手を添える。 喉が鳴って、細められた瞳に色が戻るのを、銀次はじっと見ていた。グラスについた水滴は、銀次の指先からも落ちる。前に落とされたものとあわせ、床をひどく濡らしていた。 「まだ、いる?」 グラスの水が尽きるのに合わせ、問いかけた。赤屍は首を振って立ち上がる。目を細め、銀次はグラスを渡してやった。 赤屍が、ふらつきながらも自ら蛇口に向かう。グラスに水を注いで、唇を濡らし、喉を鳴らして飲み下す。それを何度か繰り返して、深い呼吸をした。息が荒い。カウンターに手を付き、身体を支えている。 それを見かね、銀次が近づいて手を伸ばした。しかし次の瞬間、光るものが飛んでくる。反射的に身をかわし、銀次は、壁に突き立ったメスを見た。 なぜか笑えた。 「……体調が悪いと」 赤屍も笑っている。手の中のメスを揺らしている。いつも不吉なそれは、今日はなぜか輝いて見えた。水の波紋が反射している。 「気も弱くなるものだといいますが。私も、そうだったらしい」 目を細めて笑う。それはいつもの笑顔で、銀次は思わず一歩引いた。するとたまらないように、赤屍が三日月に目を細めて笑った。 「楽な方に楽な方に、ねえ。いってしまうみたいです」 ゆっくり姿勢を正し、濡れた両手をシャツで拭う。 「死にたがっているくせに、死を脅えている。そんな輩を殺すなという、君のことはさっぱりわかりませんが。あるいは君は、残酷でないのかとすら、思いますが」 「……そんなに難しいことはないよ、赤屍さん」 ちら、と赤屍が銀次を見た。 「その話はまた、今度にしましょう。……水」 「はい?」 「水。には、感謝しますよ」 「オレの店じゃないですけど」 クス、と赤屍が笑みを漏らす。たじろいだ銀次を押しのけるようにして、カウンターを出、上着とセーターを拾い、コートを手にした。 不思議な光景だ。ラフすぎる。濡れ乱れたシャツに、コートを持った赤屍。 「では、あとのことはよろしく」 にこり。笑って消えた背中を追って、銀次はしばらく、不思議な感覚に戸惑っていた。暗闇の中に降りていく白。まだ残った夕暮れのせいで、襟元に残った汗か、それとも水が輝いて見えた。 銀次は思う。あれは人殺しの死神だろう。それがまるで、なにかうつくしい、世界の化身のように思えたのだ。 「……」 銀次は首を振る。妙な気分を続けていても、いけない。銀次にもしてはいけないことはある。あまり難しく考えてはいけない。 とりあえず壁に刺さったメスを見、溜息をついておいた。傍迷惑な存在であることは間違いない。 |