なんだか欲求不満だ。
 逃げた相手が置いていった手首を、胡麻粒くらいに刻みながら。赤屍はそう思った。追って命を奪う気にもならない。夏バテだろうか?
(まさか)
 限界のわからない自分の身体だったが、夏バテが適用されるとは思えない。ではなにか、というと。
 思い当たることはないでもない。
(ふむ。あれで身体の調子を狂わせたのかもしれません)
 なにしろ自分らしくもないことをしている。ちょっと気分が良いからといって、あれはいかがなものだろう。気持ちは良かったが、やはり自分らしくはない。今度からは気をつけることにして、問題は今の状況だ。
 やはり、元凶に責任を取って貰わなければ。
 なんだか上機嫌になった自分に気付くことなく、赤屍はてくてく新宿に向かっていた。



「いらっしゃ……おお!?」
 波児が身を仰け反らせて出迎えてくれる。赤屍はじっとその様子を眺めてから、にこりと笑った。
「こんにちは。新しい挨拶でしょうか?」
 問いかけてやると、反ったままで彼は苦笑した。「人が悪いね」どういう意味かわからないが、悪いというのは言われ慣れたことだ。やはり笑っておいた。
「何の用だい。まさか、珈琲を飲みに来たわけじゃないだろう?」
「ええ、まあ」
「仲介屋か?」
 まさかなあ、という声だ。やや危惧がこもっている。通常、赤屍が仕事を自分から求めることはなく、仲介屋を探すとなると、何かのトラブルだと想像がつく。
 トラブルが起これば、仲介屋の一人や二人は死んでいる。彼が何を危惧しているかを知り、赤屍は断っておいた。
「御心配なく。店は汚しませんよ」
「……いや、そうじゃなくてだな」
「大丈夫です。……それより、銀次クンをご存じないですか」
 少し考えて、カウンターに腰掛けることにした。波児が胡散臭そうな視線を向けてくる。はて、と考えてから手を打った。
「ああ、すみません。何か、適当なものを」
 にこやかに。店に入って注文せんのもどうかと思うぜよ、と呆れた顔をした人物を思いだしたのだ。
「いや、そうじゃなくてだな。……まあ、いい」
「はあ」
 とりあえず目の前に氷水が置かれた。一度だけ口をつけて、これで責任は果たしたとばかりに、赤屍は質問を再開した。
「それで、銀次クンは?」
「アレに逢ってどうする気かな」
「ちょっと、刻もうと思いまして」
「……」
「大丈夫ですよ。動かなくなるまでは刻みません」
「…………」
「それで、ひとつお聞きしていいですか」
「………………はあ、どうぞ」
 なんだか気の抜けたような声だ。夏バテなのだろうか、と赤屍は思った。普通の人間というのも色々大変らしい。
「どこを刻むと、戦闘に支障がなく、なおかつ苦しいと思いますか?」
「……それはそっちの専門じゃないか」
「はあ。意図的にそんなことをした事がないので」
「自分で考えな」
 呆れたように捨てられて、赤屍は、案外本気で困っていた。銀次を殺すわけにはいかない。だからといって、刻まないことにはすっきりしそうにない。では、ほどほどに切り刻まなければいけないわけだが。
(だって、ねえ。戦えなくなっても困りますし)
 カウンターに腕をつき、うんうん考えてみる。手や足はまずい。首も飛ばしたら死ぬだろう。胴だって恐らく死ぬ。指先では手応えがなさすぎる気がする。
(この際、刻まなくても)
 考えの矛先を変えてみた。切り取られた部位がすっとぶのは気分が良いが、切り開く、くらいでも楽しいかもしれない。数で補えばなんとか楽しめそうだ。
(まず、頬。多少動かれて深く入ったところで、さほど問題があるとも思えませんし)
 手加減をする、という行為が赤屍には慣れないことだ。その辺をしっかり考えなければならない。
(だとすると、首筋あたりはまずいですね。手首も……もしかしたら死ぬかも。太股あたりなら、ちょっと誤っても貫通しそうにないでしょうか)
 考えているうち、なんだかうきうきしてきてしまった。赤屍はほんわりとした表情で、切り裂く部位について考えを及ばせる。とにかく何処を切ったところで、銀次は悲鳴くらいはあげるだろう。
 そして血が流れないことはない。ふわっと膨らんで、大胆に切り刻んだ時とは違う、セクシィな流れ方だ。なかなか悪くないと思った。
「あのう」
 とりあえず頬、と考えがまとまりそうなところで邪魔をされた。
「あのう、赤屍さん」
「はい?」
 見れば、銀次が目の前にいた。咄嗟のことで、赤屍はどうしたものか少し迷う。あと数秒待っていてくれれば、咄嗟に動けたのだが。考えがまとまる寸前だったのだ。
「さ……、探してたとお聞き致しまして参上を……」
「ああ」
 ずりずり後ずさりしている銀次に、赤屍はにこりと笑いかけた。やはり、頬がいい。よく動く、やわらかそうな頬だ。切り刻んだ様子が目に浮かぶ。
「クス。では、用事を」
「ヒー」
 メスをかざすと、銀次が飛び逃げた。
 なかなか良いスピードだ。うきうきと赤屍はメスを放つ。うねうねした銀次にかわされた。赤屍さん何ですかこれは俺悪いことしましたか、とか聞こえている。
 構うことなく、赤屍はさくさくメスを投げた。銀次は逃げ惑ったが、頬にわずかに傷が走った。それをじっくりと見て、赤屍は頷く。
「はい、すっきりしました」
 思ったよりも、さっさと欲求不満が解消されてしまった。銀次の逃げっぷりがおもしろかったせいだろう。
「では、失礼を。……ああ、お代は」
「……お代はいいが、修理代を」
 素直に波児が提示した金額を払い、てけてけと赤屍は店を後にした。コートが弾んでいた、かもしれない。



 気付けば呆然としていたはずの銀次が、妙に頬を赤くしている。
「どうした……?」
 あまり聞きたくもないが聞いておく。くるーりと銀次が振り返り、にまにまと笑った。
「かわいいよねえ」
「……」
「あれ、あれでしょ。そう安い男と見るなって、そういう主張」
「……そか」
 おまえがそう思ってるのなら、何も言うまい。何も聞くまい。修理代も弾んでもらったし、何も問題はない。ないったら、ない。
 とにかくそういうことにして、波児は皿を磨いた。皿はいい。円満だ、などと思った。