じゃりじゃり。慣れた手つきで砥石を動かす。常人には耳障りな音が響いていたが、赤屍は楽しげにそれを続けた。前準備ともいえる作業を、赤屍は面倒がったことはない。
 刃物というものは、切れなければならない。力任せに押し切るなど、品がないにも程がある。刃物に重ねて、まっすぐな切り口を思う。すりきれたカップから漏れるように、血が飛び出る。その寸前がたまらない。
 切り取られた瞬間には、血は姿を見せない。いまかいまかと待つ、わずかで、貴重な瞬間。どんな下らない人間も、その瞬間だけは持ち合わせているのだ。
 ひたすらにそれを想像しながら、うきうきと作業を続ける。ふいに、手の中のメスに何かがうつった。
「……」
 ふむ、と呟く。そのまま投げ貫いてやろうかと思ったが、やめた。まだ研ぎが足りないのだ。新しいメスを取り出すには、どうにも物憂い。
 赤屍は、とにかく目の前のメスを研ぐことを優先した。
「あー」
 後ろで躊躇った声が聞こえたが、無視する。じゃりじゃり。人の油というものは、なかなかに取れず、金属をダメにしていく。普段なら油の残る場所に刺し残したりしないのだが。
 ついつい、面倒になってしまったのだ。やはり怠惰は敵なのだろう。やりたいことをやりたい時にやるのがいつものことだが、少しは先のことを考えなければならない。
 などと思うと、いくらか不機嫌になった。
「は」
 不機嫌さを察知してか、後ろの何かが息をのんだ。動物なのだろうと赤屍は思う。動物は勘がいい。勘だけで生きていけるとは思うな、と言いたくなる気もした。
 もちろん面倒なので言わない。じゃりじゃり。薄くなった刃先がきれいに光を反射して、ほう、と赤屍は息をついた。
「あのうっ、赤屍さんっ」
 その隙をついて、後ろのアレが声をかけてくる。気分の良い時に邪魔をするというのは、あまり良い選択ではない。メスを投げてやろうかとまた思ったが、しなかった。
 まだ途中だ。
「赤屍さんってば!」
「なんですか」
 苛立った調子のくせ、問い返すととたんに黙った。色々と面倒な人間だ。物怖じせず立ち向かってくるかと思えば、殺気も見せないのに脅えている。それを見ているとついつい、また切り刻んでやりたくなる。
 だが、しない。まだ反対側が残っている。じゃりじゃり。
「えと。……こんにちは」
「はい、こんにちは」
 適当に返事を返す。メスをひっくり返して砥石を押し付けながら、ふと、少しまずいかと考え始めている。赤屍は腕時計をしない。体内感覚では、もうしばらく余裕があるかというところだ。
「何か御用ですか」
 それにしても、妙なものと少しは遊ぶくらいの時間がある。もっとも、これと本気でことを構えると、しばらく身体の疼きが収まらない。
(少し、少し)
 退屈なことだ。
「あのう、すみません、実は」
「お仕事ですか、銀次クン」
「はあ。とりあえずそうです。詳しいことは内緒なのですが」
「そうですか」
 しゃり。きわめて精密な部分に突き当たり、赤屍は目を細めた。ちりちり、千分の一ミリ単位で削られていく、物騒なしろもの。かけらが落ちる音に、銀次がびくりと震えたのがわかった。
 ここで邪魔をしてはいけないと、わかっているらしい。緊迫した雰囲気を解くと、ようやく話を続けた。
「それでその」
 そういえば何の用事だろう、と赤屍はようやく考えた。通りかかれば意味のわからない銀次のことで、脅えながらも話しかけてくるのは納得できる。
 しかし、通りかかるような場所でもない。新宿からそう遠くないとはいえ、鬱蒼とした森の中だ。
(またバッティングかな)
 あまり楽しそうじゃない、と赤屍は思った。今回の仕事は、それほど深入りしたものではない。あとは受け渡しを待って運ぶだけ。銀次がこの関係の仕事を受けたとしても、こちらは絡む理由がない。
 理由もなく切り刻んでいては、さすがの赤屍も困ったことになる。面白い人材は残しておかなければ、人生がつまらなくなるものだ。
「迷子になったんです」
「……」
 ああ、そう。
 赤屍は更につまらない気分になり、じゃりじゃり、メスを研ぐ作業に集中した。森の中とはいえ、迷うような場所ではない。民家もあるのだから、好きにしてください、というものだ。
 メスの研ぎ中でなければ「天国に案内してさしあげましょうか?」くらい言ったと思うが。ひとまず今は、阿呆っぽくて戦えない人物より、目の前のメスが大事だ。
「それで、そのう」
 極めて控えめに、銀次が話しかけてくる。研ぎ石を一度離し、赤屍はメスを空にかざした。太陽が少し眩しい。くらんだところを、なぜか目前に手が伸びてきた。
「……?」
「赤屍さん」
「何をしてるんですか」
「下、向いてたあとでいきなり上向いて、太陽なんて見ちゃだめだよ」
「……はあ?」
 何を言い出すのか、銀次は妙に真剣な顔だ。めっ、と叱りつけそうな調子だ。怒るよりは、赤屍は呆気に取られた。
 光にかざしていたメスを降ろす。光を遮っていた、銀次の手も退いた。そこで初めて、赤屍は銀次の顔を見たのだ。ふいにそんなことを思った。どうだっていいことなのだが。会うのが久々なので、顔を見るのも久々だ。
 元気でいてくれて何よりだった。病死でもしようものなら、悔やんでも悔やみきれない。
「目に悪いから」
「それで」
 赤屍は妙に機嫌が良くなった。自分でもよくわからないが、まあ、いつものことだ。自分でわかるのだとすれば、機嫌の良いことばかりをする。
「行き先はどちらですか」
「ごまかしてる。赤屍さん」
「何を」
 拗ねたように言われても、あまり不快にはならなかった。あんまりおかしな扱いが、どうもいわゆる「ツボ」に入ってしまったらしい。赤屍は愉快な気分だった。
 この調子はなんだろう。誰にも見られない調子だ。
「だから、目に悪いから太陽はあんまり見ちゃダメなんですよ」
 赤屍は目を細めた。びく、と銀次が身を引き、それからほっとしたような顔をした。わからない。
 わからない反応だ。あまり興味はないが、とりあえず観察しているのはおもしろい。赤屍は銀次に寛容だ。なぜかというと、その行動に大した意味があるように思えず、なので、いちいち怒ってもいられない。
「わかりましたか、赤屍さん!」
 銀次が言う。何やらやけっぱちのようだ。恐れていない、わけではない。腰が引けている。そんな様子を見、赤屍はクス、と笑った。
「あのねえ、銀次クン」
 わずかに殺気を見せてやると、銀次はずさーっと遠くに離れた。木の影からこちらを見ている。
「行き先はどちらですか」
「……二条さんちです」
 びくびくしながら答えてくる。赤屍はメスを持った手をあげ、一方の道を示した。
「あちらです」
「あのう、それでですね、赤屍さん」
「あっちですよ」
 にこり。笑ってみせると、なんだか聞き取れない、礼らしい言葉を呟き、走り消えてしまった。逃げ足は少し、参考にしたいかもしれない。
 メスを手元に戻し、じゃりじゃり、また研ぎ石を押し付けた。たまに鼻歌。さほどの時間もかからず、切れすぎるメスが出来上がった。目を細める。
 指先をあててみると、すんなり切れた。ただの一本線が入ったあとで、遅れたような血がにじみ出す。しつこくて、大きくない痛み。
「クス」
 銀次は運がいい。切り刻むかそうしないか、赤屍には、ただの気まぐれのようなものだ。おもしろいと思っても、次の瞬間には忘れている。なぜ上機嫌なのか、それも既に忘れている。
 追いかけて刻んでやるのも楽しそうだと思ったが、結局、やらなかった。やはり彼は運がいい。たったそれだけであり、赤屍との関係においては、それが最も重要なのだ、といえる。