「くしゅん」
 強張った雰囲気を破ったのは、銀次のくしゃみだった。
「あれ……くしゅ! ぶえっしゅ!」
 おや、と赤屍は眉をあげた。訝しげな表情だったが、銀次は恐がりもしない。くしゃみに夢中だ。
 五、六発繰り返してから、ようやく収まった。ずびずび。鼻水をごしごし袖口で拭うと、赤屍が少し嫌そうな顔をした。神経質なんだなあ、と笑いたくなるくらいの、いくらか子供のような嫌な顔だった。
「……風邪ですか、銀次クン」
 近付かないでくださいね、と身体で言いながら。赤屍の方が接近を嫌がるというのは、なかなか珍しいことだ。
 銀次はちょっと新鮮さを感じたりした。しかし、息苦しい。
「そうびたいです……」
 ずび。くしゃみのあとに、唐突に病人みたいな気分になっている。考えはじめるとなんだか、身体も熱くて、頭も痛いような気がした。
「ば」
「ば?」
「いえ」
 にこりと笑って、赤屍はしみじみした言葉を訂正した。
「そんな濡れた格好で歩き回れば、それは。……いえ、いつものことですか、あなたには」
「まあ、そういわれたらそうです」
 なんとなく照れながら銀次は頷いた。頭をかく。ちょっと視界が潤んできて、ふらふらしてきた。
「……ふむ」
 赤屍が顎に手をあて、なにか考え込む。深刻だ。睨むように視線を向けてきているので、銀次は硬直した。視線だけで殺されそうな気がした。体調も悪い。
 反射的に逃げたくなるのを堪える。背を見せたら最後だ。にこやかに、にこやかー、に。
「どうかしたんですか、赤屍さん」
「ちょっと悩んでいます」
「はあ」
 殺すかどうか迷っている、わけじゃないだろう。じゃないことを銀次は祈った。今日はその気がないとか言っといて、気が変わりましたなんてさっぱり言ってくれそうな相手だ。
(いや、そうでもないかな?)
 なんというか、その辺はプライドがありそうな感じだ。しかし、理屈でなくそう感じてしまうのだから仕方がない。
「風邪で死なれても悔やむに悔やめないのですが」
 まさか今、殺しておこうだとか。
「だからといって寝込まれても、あなたの生活環境がわかりません」
 違ったようだ。しかし。
「生活環境」
 呟いてみる。そんなもの知ってどうするのだろう、と銀次は思った。なんか本気がどうとか、雷帝がどうとかいう問題ではなくなっている気がする。
 本人気付いていないようなので、黙っておこう。生活環境。なんて平和的な言葉。
「あの、赤屍さん。オレ何も寝込むほどアレなんですが」
「寝込みませんか」
 じっと問いかけてくる。たじたじしつつ、銀次は頷いた。
「ふむ。では」
 ぽんっと手を打ち、赤屍が言う。
「これをあげるので、とりあえず着替えるなりなんなり、好きにしてみてください」
「ぎゃふん」
 渡されたのは一万円だ。銀次はちょっと真顔で古典的感嘆詞を告げてみたりした。喧噪が遠ざかる。なんだかまた、身体が熱くなってきた。そわそわ。
「あの、赤屍さん。これって」
 偽金ですか?
「どうぞ、それでなんとかしてください」
 にこやかに赤屍は銀次を見ている。なんだかよくわからないが、くれるらしい。とりあえず誰かに取られちゃいけないので、いそいそポケットにしまっておく。
「あの、赤屍さん。ほんとに貰って良いんですか?」
 なかなか殊勝な台詞であったが、もう返すまいとばかりにポケットを押さえながらでは、説得力がない。赤屍はそれを気にかけないらしく、非常におおらかに、にこにこ頷いた。
 どちらが殺人鬼かわからない状況だ。
「どうぞ。おもしろいことをしてください」



 おもしろいことといっても。
 大金が入ってやることといえば一つだ。大量の食物を買い込んで体内に取り込んでいる銀次に、赤屍はちょっと呆れたような言葉を吐いた。
「ねえ、銀次クン」
 呆れて、どこかつまらなそうだった。これは不味い、と天性の勘のひらめきで、銀次ははむはむパンを囓るのをやめた。
 空気が冷たくなっている。視線が尖りすぎだ。危険な状態である。
「私は、それでなんとかしてください、と言ったんですよ」
 向かい合ったベンチ。定住地のない銀次には、安らげる空間である。子供達はおもしろげに視線を向けて、母親に見るんじゃありません、とか言われていた。
「でででも、栄養のあるものを食べないと」
「栄養のあるものを食べても、環境をなんとかしないとどうにもならないじゃないですか。どうするんですか、それ」
 と、指さされたのは、未だ濡れたままの服だ。どうして乾かないかというと、やはり濡れたままの髪から、ぽたぽた雫が落ちているからだ。
「どう……どうって」
 銀次は困った。どうするもこうするも、とりあえず拭くしかない。
「えっと。タオルを買います」
「そんな問題でもないと思いますが、既に」
「えーっと……」
「だいたい汚れてますよ。着替えを買う、とかいう頭はないんですか、あなたは」
 なかった。
「しかたないですね」
 赤屍さんはご不快だ。銀次はたれて視線で許しを乞うた。あまり興味もなさそうな視線が通過して、手を取られる。
「あなたが考え無しに生きているというのはわかりました。死なれても困るので、もう少し奢ってさしあげましょう」
「え」
 とたんにキラキラした瞳を、赤屍はうんざりしたように見た。銀次は真面目な顔をつくろった。劇画的に。
「……まあ、いいです」
 何がいいのか。自分でもわかってなさそうな顔で言うと、赤屍はすたすた歩き出した。手が高い。引きずられるようにして、銀次はそのあとをついていった。



 今日、二回目のシャワーを浴びて戻ってくると、赤屍は窓枠にもたれてぼんやりしていた。風流ですねえ、と言いだしそうな様子でもある。
 銀次は恐る恐る声をかけた。
「……ごちそうさまです」
「いえいえ」
 動じない。アニメーションみたいな滑らかな動きで振り向いて、つやつや卵肌な銀次を見る。上から下まで。頷いたのは、それなりに満足したということらしい。
 ちなみに銀次は、タオルを羽織っただけの素っ裸である。汚れた服はクリーニングに出してしまった。赤屍があまりに当然のようにそうするので、あたふた、銀次は従うだけだった。
「あのう」
「浴衣があるでしょう、そのへんに」
 言葉にするまえに、すげなく返される。銀次は慣れないホテルの部屋から急いで浴衣を探し出し、とりあえずそれは着てるかな、という程度に巻き付けた。素っ裸で赤屍の前にいるというのは、かなりのプレッシャーである。
 なんか、切られたらひとたまりもない気がするし。あんまり鋭い視線なので、意味もなく照れてしまう。しかも、銀次が照れてもちっともさっぱりあっちは気にしていないところ。
 とにかく、たまらないのだ。
「美堂クンは」
「あ、蛮ちゃんは、たぶん姿が見えないからパチンコとか」
「……なるほど」
 浴衣と世間話のおかげで、銀次は少し落ち着いた。椅子を赤屍が使っているので、ベッドの上にごそごそ乗り上げる。
「そういえば、あなたに飲む金があったということは、そういうことでしょうね」
「はあ」
 恐縮した。ばかにしたような赤屍の視線が通過したが、気にしない。というか、気にならないのが銀次だ。
「何かあったんですか」
「は?」
 じ、と伺うように見てくる。また落ち着かなくなった。赤屍から興味津々な視線を向けられるというのも、ちょっとないことだ。
 銀次がたじろいでいると、埒があかないと考えたのか、赤屍が立ち上がった。わずかに脅えた銀次の前に、ぽふりと腰掛ける。威圧感のわりに、動きは軽い。
「パチンコって、深夜は営業しちゃダメなんですよ。だというのに、あなたは美堂クンと一緒にいなかった」
「うっ」
 鋭い。
「宴会なら、一人だとは考えられないでしょう。どなたと?」
「……」
「おまけに今日は元気がないようだ。どうしてそうなったのか、私は知る必要があります」
 銀次は天井を見てから、ふと首を傾げた。
「必要って」
 どんな必要だ。
「どこにヒントがあるかわからないじゃないですか」
「オレが雷帝になるヒント?」
 銀次は軽く眉を寄せた。そんなところにヒントがあるとは思えなかったが、もし、まかりまちがってあったとしたら困る。
「じゃ、言いません」
 つんっと唇を尖らせて言う。なにしろ今日の赤屍は殺気がないものだから、気を抜いていた。
「そうですか」
「……」
 笑顔。
「なるほど。なるほどね。言う気がないんですね?」
「……」
「あなたは人のお金を受け取っておいて、そんな態度を取るわけですね」
 笑顔のまま、赤屍がひょいと指先を動かした。びくぅっと銀次が身を仰け反らせる。更に赤屍が指先を額に触れさせると、ほとんどブリッジになった。
 無言のまま、妙な空気が落ちる。赤屍はじーっと銀次の姿を見、クス、と笑った。
 おかしかったようだ。
「それで?」
「すみません女の子と飲んでたんですが振られちゃってへこんでます。えへ」
「はあ、なるほど?」
 唐突に饒舌になった銀次には興味がないらしく、なるほどなるほどと頷いている。
「あなたは女性が好きなんですね」
 頭にメモしているようだ。ふと銀次は、どうにも想像できない疑問を持った。
「……赤屍さんは、そうじゃないんですか?」
 考えられない。
(絶対この顔だったらモテそうだし、お金持ちだし、一見紳士だし、なんか危険な香りが)
 しかし、赤屍が女の子を侍らせている姿というのは、考えられなかったのだ。だからといって、女の子と付き合わないような堅物にも思えない。
 堅物じゃなくても女の子と付き合わない人間はいるだろう、というのは、銀次にはとりあえず考えられないことだった。
「はあ?」
 意味がわからない、というように赤屍が首を傾げた。
「女の子、嫌いですか」
 よくよく考えれば、かなり際どい質問だ。が、銀次はそれに気付くことなく、率直に問いかけていた。赤屍が考えるように目を細め、笑う。
「さて。そんなに女性が好きですか、銀次クン」
「え、それはもう」
 どきどき、頭をかく。
「ってそうじゃなくて、赤屍さん。女の人と付き合ったりしないの」
「わかりませんね、何が楽しいのか」
 ないらしい。銀次はまばたきして、じっくり赤屍を見た。そういうことには、けっこう上手なように見えるのだが。
 意外なものだな、と思った。赤屍にもかわいいところがあるらしい。
(かわいいところって)
 自分の発想に脅え、銀次はわずかに身を震わせた。
「何がって、そういうことじゃなくて……だってかわいいから」
 女の子のことを言ったのだ、もちろん。しかしどうしてか、目の前の相手に言ったような気分になる。ふわりと首を傾げてこちらを見ている、赤屍に向けて。
 視線も外せない。
「かわいくてこう、ぎゅーっとしたくて」
 ぎゅーっと。
(したら殺されます)
 なんて、自分に突っ込んだ。別にしたいわけじゃないわけじゃないと思いつつ、何故か。想像してしまうのだ。
「大事にしたくなるのは、本能だと思いますが」
「ほんのう」
 ふむ、とつまらなそうに赤屍が頷く。
「それになんていうか、どきどきするし」
「どきどき」
 うんざりしたように赤屍が欠伸をする。欠伸くらい無邪気なものはない、と銀次は思った。あの赤屍が。欠伸をして、目に涙を溜めている。
「……身体が反応するっていうか」
「身体?」
「だ、だって男の子ですから」
 しげしげ、赤屍が銀次を見た。少しは興味をひいたようだった。えっちなことが好きなのだろうか、と思って銀次は頬を赤くした。
 何を考えているのだか。
「ああ、つまり」
 ひょい、と赤屍の指先が動く。びくりとした銀次の隣を通って、テレビのリモコンを取り上げた。何をするのかと思えば、ちょいちょいと操作している。
 ぱっちりついた画面に、銀次はぱっくり口をあけた。
「こういうのを見るのが?」
 アダルトチャンネル。
「あ」
「あ?」
「ああああっ、だめですよ赤屍さん、これって別料金…!」
「そこですか」
 呆れて、赤屍がリモコンを放り投げた。チャンネルはつけられたままだ。あられもない姿で、女優が喘いでいる。
 妙な雰囲気になった。なんだろうこれは。なんだろうこれはと銀次はぶつぶつ呟く。
 ほんとになんだろう、一体。
「ベッドの上では雷帝」
「はあっ?」
「とか、なりません?」
 何を期待しているのだろう。醒めたような、呆れたような微妙な気持ちになった。けれど銀次はちらりとテレビを見、頬を赤くし、目前の顔に視線を戻し、また顔を赤くした。
「……すみません、消してくれませんかそれ」
「消しても良いですけど。……失礼」
「うわぁっ」
 悲鳴をあげ、銀次はそれから停止した。股間に手。有り得ない。有り得ない手。
 それだけで人を殺す指先が、やんわり触れている。異次元を感じた。くらりと目眩。そのまま気を失ってしまいたくなった。そしたらどうなるだろう。恐怖で踏みとどまる。
「なるほど、反応してる。が、電気は流れない。やはりそんな単純なことではないようですね」
 冷静な言葉だった。非常に。かあっと、更に頭に血が上る。銀次はとりあえず、ぎしぎしと触れている手を振り払った。
 きっと睨む。いくらなんでもこんなことをされて、怒らずにいられない。
「赤屍さん!」
「はい?」
 にこやかに答えられてぐったりした。きらきら期待を向けてきている。怒らせるのは、この人にとって楽しいことなのだ。そう思うと、怒る気にもならない。
 それにしてもこのまま流すのも癪だった。頭に血が上がったあとは恐れ知らずになる。銀次は手を伸ばした。
「赤屍さんはどうなんですか、女の子に興味がないなんて……あれ?」
 ふにり。
 赤屍は無抵抗だった。すんなりと、銀次のてのひらが触れる。厚い布地に覆われてはいるが、男のもののある場所だ。あんまりに柔らかい、何もないような感覚に、銀次は首を傾げた。
 ふにふに。
 触れる。何もない。
「……あ」
 銀次はそのまま赤屍を見上げ、ちょっとどころでなく頬を熱くした。
「赤屍さんって……お……、おおおお、おん」
「違いますよ」
 にこやかに笑う。物騒でも壮絶でもない、あどけないくらいに、にこやかな笑顔だった。銀次は戸惑う。
 戸惑った、離れることも忘れている手を、赤屍がそっと取りのけた。上品にも思える仕草だ。この人は良い育ちなのかもしれない、と銀次は思った。逃避みたいな、頭の端を過ぎったことだ。
 赤屍が立ち上がった。何をするのかと思えば、ベルトに手をやっている。唖然とした銀次が何かを言う前に、首を傾げた。
「見ます?」
「え」
 遠慮します、とも言えない。あの感触を知ってしまったからには、見ずには眠れそうにない。確かに、そこには何もなかった。
(女の人だったら。……どうしよう)
 銀次の目の前で、黒い布地が脱ぎ落とされた。何もかもが取り払われ、肌が露出するのを見ている。最後に目にした光景に、唖然と呟いた。
「なんで……」
「間違ってでも人間を産み出すなんて、ぞっとするじゃないですか」
 きれいなラインの足の間、あるべきものが削り取られている。切れの悪い刃物で落としたような、ひどい傷跡だった。そこだけが何かの悪戯で、合成されたような印象だった。
「そんな、気持ちの悪い」