「こんにちは」
 道端で声をかけられてハイと振り向き、銀次はそのまま固まった。
「ヒー」
 頬の筋肉もそうなものだから、無表情で悲鳴をあげる。ちょっと冗談みたいな態度だ。赤屍はぞっとするような視線で「だからどうした」と語っている。
 不機嫌だ。
(き…機嫌の悪い時のこの人ってどうしてこうも……)
 何かに似ている、と銀次は思う。どこかで見た、なんか凄く恐くてでも見たいようなものに。
(あ)
 貞子だ。
「あ、あのう。なんでございましょう。オレが何か」
 やや失礼なことを考えてしまったために、いくらか緊張が解けた。じっとりした赤屍に問いかける。今にも斬りつけてきそう。
 というか。
(なんか身体がぴくぴくする……)
 メスがかなり活発に動いていないだろうか。そんなことはできれば知りたくなかった。知らなかったふりをしよう。何もない。
 メスなんてどこにあるのさ!
「抜糸」
「はあっ?」
「糸です。抜きましたか」
 幕の内弁当を二十個くらい平らげる時間をおいて、銀次はようやく理解した。赤屍は不機嫌そうにつまらなそうに、銀次をひたすら「見て」いる。視界にいれてはいる、という様子だった。
「……抜いてません」
「だと思いました」
「えっと」
 これはつまり。
「覚えててくれたんですか……」
 なんか感動なような、放って置いて欲しいような、微妙な感覚だった。普段、極めて単純な銀次だけに、なんだか混乱する。くらくらするような目眩の中、ああ、これって恋?などと思ってみた。
「嬉しいです」
 付け足すと、赤屍が物凄く凶悪な顔をした。貞子も逃げそうだ。思わず銀次は仰け反った。
 ひとりで色々運動している銀次を、やはり赤屍は不機嫌そうに見ている。しかし、視線を外さないところ、案外楽しんでいるようにも思えた。
「忘れてたんですよ。さっきまで。あなたを見つけるまではね」
「ご、ごめんなさい」
 銀次は思わず謝った。
「ごめんなさい?」
「ついフラフラ歩いてて……あ、意味なく歩いてたわけじゃないんですけど、やっぱりこう、」
「とにかくちょっと、見せなさい」
「あ、はい」
 いそいそ上着を捲り上げようとして、ふと、銀次は周りを見回した。人気の多い場所でもないが、なんだかそれだけに。
「……ここで?」
 どきどきします、なんて言ったら殺されそうだ。
 控えめに言うと、赤屍は当然のごとく、深く深く頷く。不機嫌が加速されても困るので、銀次は大人しく道の端により、よいしょと服を引っ張りあげた。
 赤屍はしずしずとコートを翻して近付いてくる。背中を見せずに逃げたくなる、そんな雰囲気だ。おどろおどろしい音楽が頭に響いた。足を踏ん張る。
 と、銀次の目の前で赤屍がしゃがんだ。
「……」
 傷を看ているらしい。医者らしい落ち着いた視線が見えて、銀次は少しだけほっとした。ほっとしたあとで、困った。
(なんか)
 こんなトコで腹出して前で屈まれたりしたら、なんというか。若さ故の過ちというかなんというか。
(あう)
 思わず身を捩った。すると、かつ、と頭の横にメスが刺さる。気分が一気に冷えた。
「ごめんなさいオレも好きでそんな事考えたんじゃ、」
「動かないで下さい」
「……あい」
 びし。言い訳に両手をわさわさした状態で動きをとめた。それに赤屍が上向き「クス」と笑う。自主的でなく銀次は硬直した。いや、恐いとかではなく。
 リアルだ。
(アダルトビデオみたい……)
 だと、思ってしまうのはどちらが悪いのか。
「銀次クン?」
 口元がやらしい。
 ものすごく具体的にそう思って、銀次は狼狽えた。そりゃあ、一度は触れた唇だ。唇どころか色々触れている。けれどそれは、どちらかというとコミュニケーションとか、相互理解とか。そんなものだったと思う。理解してないけど。
(だって、理解させたいと思ったんだ)
 けれど今はどうだろう。なんだか、凄く。
(どきどきする)
 触れられもしないくらいに。
「銀次クン」
 だから赤屍の言葉を聞かず、銀次は口元を見ていた。ぼんやり。すると不快になったらしい赤屍が、ひょいと身を起こし、メスを持った手を。
「あ」
 思わず、銀次はそれを止めた。手首を握って。
(まず…っ…)
 挑発しているようなものだ。赤屍が本気を出す前に、手を離そうとしてできなかった。細い手首だな、とか。そんなことを考えている時ではない。
 できないのなら、とその手を引いた。思った通り、赤屍は銀次が何をするのか興味が湧いたようだ。
 指先に口付けた。
 何をしているのだろう、と銀次は自分で思ったが、許しを乞うような仕草に思えたのだろう。赤屍は、笑った。それがあんまりに楽しそうな顔だったので、あれ、と銀次は思う。
 もしかして機嫌が良いのではないだろうか。
「赤屍さん?」
「はい?」
 赤屍はにこやかだ。するりと伸びた手が、腹部をこそこそ弄っている。腹筋に力を入れ、銀次は周りに視線を向けた。
「……こんなとこ見られたら、とか思いません……?」
「いいえ?」
 とてもあっさり、赤屍は答えた。
「私が。何を。しているように見えると?」
 確かにそうだ。こんな姿でこんな存在感では、赤屍蔵人以外の何者に見えるだろう。そしてそうである限り、まさか抜糸には見えないだろう。抜糸には。
「そうですね」
「大丈夫。目を閉じてなさい」
「はい」
「そしたら、死体解剖に見えますから」
「……」
 それもどうかと思いますが。
「それとも」
 複雑な顔の銀次を見、にこりと笑った。
「他に何かに、見えますか?」
 ふにふにと腹部を弄られながら、至近距離の瞳。身体も近い。銀次は目眩がして、それから熱くなって、それからやっぱり恐かった。色々とまぜこぜになって目眩を起こしている銀次を覗いてくる。
 楽しげだ。
「はい」
 とても楽しげだ。
「終わり」
「へ?」
 首を傾げた銀次に、指先で腹部を示す。糸が抜けている。いつの間に、と唖然とする。
「まったくあなたは、おもしろい」
「……わ」
 さら、と腹部を撫でられ、身体が動いた。それを放って赤屍が離れていく。ずるずる壁にそって、銀次は座りこんだ。
「それでは」
 にこやかに去っていく赤屍の背中を見、銀次は溜息をついた。わかっていたのだろう。銀次が、ちょっと邪な反応を見せていることに。腹を見ていたのだから、気付くに決まっている。
(…………変な人)
 仕返しのようにそう思う。どうやら、銀次をからかうバリエーションを見つけたらしい、うきうきした背中に向けて。
 さて、その背中だけで抜けそうだと言ったら、報復になるのだろうか。
「うえ」
 自分が情けないな、と思い直した。