遠く喧噪が聞こえる。
 ぼんやり目を開くと、近すぎる距離に恐くてきれいな顔が浮かんでいた。銀次は心臓発作を起こしかけ、喉を鳴らしながら息をする。まったく表情のない赤屍が、それを確認して口を開いた。
「銀次クン、動かないで」
 このまま死ぬのだろうか……なんてことを銀次は考えた。
 何しろ真っ直ぐな赤屍の視線というのは、それだけで人を殺せそうだ。だというのに、ちょっと悲鳴をあげるような距離だ。このまま目を閉じて、どこか夢の世界に旅立ちたかった。
 そうできなかったのは、腹部に大きな痛みがあるからだ。ほとんど範囲もわからず、盛大な痺れとして覆っている。その中を、ちくちくした痛みが走っていた。全体の痛みを考えれば小さな、けれどしつこく気になる痛みだった。
「赤屍さん……?」
 不審に起きあがろうとすると、赤屍に肩を押された。もう一度「動かないように」といくらか強い口調で言われる。ひどく暗くて、何をされているのかよくわからなかった。
 目の前の、赤屍の顔だけはとてもよく見える。銀次に意識を向けていない。恐怖を思うことなく、銀次はじっとその顔を眺めた。かすかな揺れから考えて、彼は何かをしているらしい。
 暗闇でよく見えるものだと思った。猫目が効くのだろうか。
 少し、逃避をした感覚だ。痛みを逃れようと、切り離された気がした。
「もう少し」
 ぼんやりした頭の横に、赤屍が手をついているのが見える。ちくちくした痛み。ぷつん、かすかな響きに銀次は呻きをあげた。
「……もしかして」
 なんだか嫌な予感がして、銀次は軽く身を捩った。すぐに、逆らえないような力に押し戻される。強いのではない、逆らう気になれない力なのだ。
「はい、終わりました」
 にこりとして赤屍が離れていく。まったく素っ気ない。銀次はなんだか物凄く安堵したような、物凄く残念なような、とても落差のある感覚を味わった。
(変なの)
 赤屍が関わると、どうも自分はおかしい。恐いのに。なんだか恐いもの見たさのように近付きたくなるのだ。命を大切にしなければ、と自分でも思う。
「起きて良いですよ。そっと」
 そろそろと身を起こし、傷口を確認する。想像通りの光景があった。
「やっぱり……」
 縫われている。ちょっと銀次は目眩を感じた。するすると離れていった赤羽は、その傷口を覗くようにした。できれば。
 できればこういうことは明るい中でやってほしい、と銀次は思った。もちろん言えない。なんだかギリギリだった。
(赤屍さんが医者っぽい……)
 のだろうか。
 どちらかというと通り縫い魔だと思った。きっと針はまた、身体の中から取り出したに違いない。なんだか得をしたような、妙なウィルスにやられたような、そんな気分になった。
「あのう、赤屍さん」
「あのねえ、銀次クン」
「はあ」
 ちょい、と上目に視線をやって赤屍が言う。銀次はくらくらした。血が足りていないのだろう。
「いくら自然治癒って、限度がありますよ」
「……反省してます」
 銀次は心からそう言った。天下の赤屍蔵人氏に手当なんぞを受けてしまえば、とても反省せずにはいられない。
「まったく、不本意なことです」
 気怠げに溜息をつき、赤屍が何かを引っ張った。
「ぐ」
 腹を押され、空気が押し出された。痛みのこもった呻きになる。
「あ…赤屍さん…、痛いんですけどっ」
「そりゃそうです。でも、固定しておかないと」
 きゅーっと包帯で締め付けているのは、どう考えてもやりすぎだ。縫った意味なくなりませんかと言いたかったが、とてもそんな声にならない。ひたすら切実に痛みを訴えていると、赤屍が上向いて笑った。
「銀次クン」
 あ、不味い笑い方だ、と銀次は思う。
「私の手当を無にする気ですか」
 黙った。すると赤屍は懇切丁寧、甲斐甲斐しいほどの仕草で包帯を巻き終えたようだった。銀次は息を吐く。有り難すぎて息を引き取りそうだ。
 赤屍を伺いながら、もぞもぞと身体を起こした。痛みは続いているが、さすがに出血はしていない。腹部を見たあとで、赤屍を見た。彼はすっかり患者を診る視線だ。なんとなく、優しく見えなくもないと思う。
(赤屍さんって)
 やっぱりお医者さんなんですか、と聞こうとしてやめた。ちょっと恐い。色んな意味で。
「……ありがとうございます」
 かわりに、ぺこりと一礼した。すると赤屍はちらりと眉をあげ、少し不機嫌そうに頷く。
「あのう」
「何ですか」
「治療費は」
 びく、と眉が動いた。
(……あ)
 なんだか少しどころではなく、不機嫌にさせたような気がした。思わず逃げようとした身体は、けれどまだ気怠い。血が足りていない。ずるずる這いずりそうな銀次を見、赤屍は溜息をついた。
 大人げなかったか、という表情だ。
「私をなんだと思ってるんですか」
 殺し屋、と即、銀次は思った。顔に出ていたらしい。
「まあ、良いですけどね。……さて」
「赤屍さん」
 去りそうになった赤屍を引き止める。いつもの癖で、容易く手を触れてしまっていた。どうしてだろう、と銀次は思った。離れそうになると引き止める。傍にいるとなると恐ろしいのだ。
「あの」
「はい?」
 にこやかに、とてもにこやかに赤屍が答えた。そのくせ、引き止められることを想像もしていないような顔だ。銀次に掴まれた腕を知らぬげに首を傾げている。
 思わず緩めそうになる。自分の腕に、意識して力を込めた。
(せっかく、会ったんだから)
 怪我をおしてまで会ったのだから。何かを見つけなければ勿体ないと思う。
(赤屍さんは、恐い)
 でも、会いたい。
(なら)
 会いたいのか恐いのか、どちらかにしなければならない。さすがに子供じみた銀次でも、そのどちらをも解決できるとは思っていない。仕方ないことだろう。
 どちらか。
「銀次クン?」
「あの」
 赤屍は呆れたような顔をして、暗闇の中、床に座り直した。意識がずれる。銀次は初めて、ここが店の控え室か何かなのだと気付いた。
「……ありがとうございます」
「それはもう、聞きました」
 焦らせる言葉ではない。赤屍は仕事だとか、血だとか、死体だとか。そんなものに関わっていない限り、まるで紳士的だった。そうして感じられる違和感が、恐れにかわる。
 これも計算なのだろうか、と銀次は思った。
(いや)
 赤屍にそんなものは必要がない。存在一つで、誰をも恐れさせている。
「……銀次クン?」
 困ったような表情。それに焦らされたが、銀次は何を問いかけたら良いものか、さっぱり思いつかなかった。聞きたいことはいくつもある。けれど今。
 何を聞けばいいのだろう?
「赤屍さんは」
 恐かったり、会いたかったりする人のことを。恐かったり、会いたかったりすることについて?
「恐い人はいますか?」
 そのままを聞いていた。後悔する前に、赤屍が不思議なほどあどけない表情をして首を傾げた。それだけが見れただけでも、充分な質問だったと思うような。
 答えはわかっている。そんなものがいるはずがない。銀次はそう思った。赤屍が、不思議そうに、なんでもなく答える。
「いますよ」
「え!?」
「銀次クン、恐いというのはね」
 たまらない笑みを漏らしそうに、赤屍が目を細めた。と、その表情が緩む。困ったような顔をした。
「……君に説明するのは難ですね」
「は」
 ちょっとたれた。
「つまり、スリルだとか」
「はあ?」
「どきどきするでしょう?」
 ふわりと首を傾げて。無邪気に、心からそう思った言葉だ。間違っていることを思いもしない、当然の言い草だった。
「恐い人がいなくなったら、困るじゃないですか」
 だから恐い人はいます、ということらしい。
(それはどうなんだろう?)
 いなくなったら困るからいる、というのは、なんとなく間違っている気がした。なんというか。
(あ、そうだ)
 卵が先か鶏が先か、とか、そういう感じだ。銀次は難しく眉を寄せた。
「質問はそれだけですか」
「じゃあ。……あの、会いたい人はいますか」
 赤屍が立ち上がる。さすがに、二度目になると引き止めるのに躊躇った。切り捨てられそうだ。銀次はとりあえずの質問をした。質問だけなら、嫌なら答えなければいい話だ。
 それでも、赤屍への言葉というのは、いつもどきどきするものだった。
(いつも死ぬ気で)
 なんだか、全身全霊で会っている。そんな気がする。だから勿体ないだとか、思うのだろうか。
「会いたい人」
 ほとんど背中を向けながら、赤屍が笑った。これもやはり、赤屍には相応しくない質問だった。会いたいなんて。
 まったく似合わない、けれど。
「いますよ。たまらないくらいに、血の騒ぐ、人が」
 頬が紅潮して見えた。これほど似合う人もいないのではないか、思わずそう思ってしまうほど。答えは赤屍に相応しく思えた。ふらりと消えてしまった背中の残像を追って、銀次はぼんやり思う。
 似合わないと思うのは。
(オレの感覚なんだ。たぶん)
 殺すことも強敵を求めることも、赤屍の感覚では、きっと正しいこととしてあるのだろう。くるりと一回転した感覚。似合わない、が、似合うになる。つまりはそういうことなのだ。
 どこかがひっくり返ったような人だ。それほど遠くないのかもしれない、と銀次は思った。恐くて、会いたくて。そんなのは赤屍だって思っているのだ。深く意味は違っていても。
 一回転して辿り着く。そこは同じ場所なのかもしれない。
(きっと思うほど、壊れた人じゃない)
 銀次はそう思った。産み出すことを望まない人。恐い人であることは確かだ。いつだって、気まぐれで銀次を殺してしまえる。けれど、わけのわからない恐怖などはない。
(会いたい、な)
 ひっくり返してやりたい。これは正義でも、義務でもない。銀次は思うのだ。
(会いたい)
 もっと近くで。