くらくらする。
 忍び込むように店に入り込み、暗がりの中に赤屍を見つけた。銀次はその姿にくらくらしているのだ、と自分を誤魔化す。心持ち反らされた背中は、つくられたものではない、合理的な形成を現しているようで好きだ。
「赤屍さん」
 ひっそりと声をかける。隣のスツールにお邪魔すると、そーっと顔を覗いた。静かに閉じられてた目が開く。
 その視線の圧力には、いつものように逃げ出したくなった。けれど、そんなことはできない。せっかくの好機なのだ。
(逃げた方が、この人喜ぶ気もするけど……)
 それはおいておこう。こちらの感覚だとか、プライドだとか、その辺の問題でもある。
「こんばんは」
「……はい、こんばんは」
 試すようにしばらく銀次を睨んだあと、赤屍は目を細めてにこりと笑った。そちらの方がいっそ恐いのだと言ったら、また面白がられるに決まっている。
「何か御用ですか」
 カウンターに肘をついて、赤屍が問いかける。なんだか、電気信号みたいに正確な発音だ、と銀次は思う。不機嫌なのかと思ったが、そうではない。
 今日は静かに上機嫌らしい。いつも赤屍を取り巻いている、不吉な空気がない。
 銀次はとりあえず勇気を振り絞った。腹に力を入れる。
「ん、」
「? どうしました」
「あ、いえ。大きな仕事が終わった後だって、ことだったから」
「ふうん」
 つまらなそうに、赤屍は銀次から視線を逸らした。下らない、と言いたげだ。確かに銀次も、卑怯なことをしているのかもしれない、と思う。
 大きな仕事を終えた後の赤屍は、けっこう安全だ。優しくすらある。銀次が安心するくらいには、雰囲気が柔らかい。
 だから、それを狙ってくるのだ。
「それで」
「……えっと」
 さりとて、話したいことがあるわけではない。あまりにおかしなことを言っては、一転、不機嫌になられてしまう。
「元気ですか?」
 結局、ありきたりな問いかけだ。赤屍は何も聞いてないような顔をした。見ているわけではないのだろうが、視線の先にはダーツの的。黒と赤のそれを、一瞬銀次は憎々しく思った。
(別に)
 なんだろう。
(オレ、この人に好かれてるとか思ってるわけじゃない、のに)
 恐いし。友達にして楽しいようには思えない。ぼんやりと銀次は周りを見回し、息を吐いた。
(空っぽの箱を見たら、何か入れたくなるなあって)
 そんなものかもしれない。
「それは……」
「え?」
 唐突に聞こえた言葉に驚く。赤屍がダーツを睨み付けるようにしながら言った。
「それはこないだの事ですか」
 何の事だろう。銀次は慌てて「こないだ」を検索した。こないだ。何かあっただろうか。体調を崩すような。そもそも赤屍とは逢うことが少ないのだから、すぐに。
「あ」
 思い出した。赤屍が小馬鹿にした視線を向けてくる。どちらかというと、銀次には色っぽく思えた。
「……いえ、あの」
「ご心配なく。体調は崩しましたが」
「崩したんですかっ?」
 と、カウンターに乗せた手に、赤屍が手を重ねた。「わあっ」と騒いだ銀次に溜息をつく。大袈裟な、と言いたげだ。
(ちが……)
 そうじゃなくて、脅えたのじゃなくて。こんな時に触れてこないで欲しい。思い切り立ち上がりかけた銀次を、簡単に止めただけなのだろうが。
「黙りなさい。目立ちたくないんです」
「は」
「仕事の後の余韻を楽しんでいたのに、まったく、無粋なことです」
「……すみません」
 銀次は素直に謝った。もっとも、かなりいかがわしいことを考えた自分に、かもしれない。
「それで、体調のほうは?」
 おずおず問いかけると、赤屍が視線を返してくる。なぜか、手袋越しの指先で、自分の唇をなぞっていた。
(さ)
 誘われてるように見えるのは絶対気のせいだ。だから気にするなと自分に言い聞かせてみたものの、銀次はちょっと辛かった。考えてしまう。
 ああして注ぎ込んだ熱は、彼の中で生きているのだろうか。
「ここ」
「ここ!?」
 唇のことだろうか。銀次は無意味なくらいに慌てたが、赤屍は気にしてない調子で答えた。
「ここが痛いんです」
「……乾燥してるようには見えませんが」
 なんというか、うるるとさららみたいな唇だ、と銀次は思った。絵に描かれたようで、とても現実的に見えない。
「夏ですよ」
 赤屍が呆れている。だったら最初からわかるように言って欲しい、と銀次は思った。我が侭なのだ。
「怪我したんですか? こないだの仕事で?」
 近付こうとすると、肩を押された。大人しくスツールに戻る。
「いいえ。もう少し前の……そう、」
 わずかに震えたのは、どうやら笑ったらしい。
「古傷ですよ」
 しげしげと見ても、傷口などは見あたらなかった。暗いせいかもしれない。騒がしくならないように気をつけて、銀次は腰を浮かす。近付いてもわからない。影になった唇を上向かせようとして、顎に手を伸ばした。
 くらりとする。その手を赤屍が掴んだ。自分でもどうするかと楽しみにしてるような表情で、引き寄せられる。
「赤屍さん……?」
「くち」
「あの、なんか、周りの視線が」
「痛いんですけど」
 銀次は言葉を止めた。なんだか唖然としてしまった。赤屍はさっぱり色気のない調子で、ただ呟いただけだ。どうしてそうなったのか、銀次にはわからない。
 わからないが、周囲の景色など飛んでしまった。薄暗い店内とはいえ、誰も見ていないわけではない。ざわめきが聞こえていた。それはそうで、銀次が今にも赤屍に殺されるように思ったのだろう。
(殺される)
 かも。
 近すぎる。こんな近さを許されるというのは、あとはもう殺されるだけなのかもしれない。
 そんなことを思いながら、唇を寄せた。
(うわ)
 絵に描いたみたいな唇は、嘘のようにやわらかい。その心地よさに舌を伸ばす。唇をざらりと舐めて、
 銀次は動きを止めた。
「……あかばねさん」
「はい?」
 にこやかだ。銀次は無言で、名残惜しく距離を取った。喉元にあてられていたメスが外される。
「あの、いったい」
「ありがとう」
「は?」
「ありがとうございます」
 何事もなかったように、赤屍がメスをしまった。銀次は珍妙な顔をするしかない。そんな視線の前で、赤屍がそっと唇に触れる。
「治りました」
「……そうですか」
「それにしても」
「はあ」
「こうも熱いというのは、どうでしょう」
「……」
「痛い方が良かったのかもしれません」
 冗談ではないらしい。見れば、かなり赤屍は真剣な顔で悩んでいる。どうせ「まあ、いいや」と終わってしまいそうに思えたが、それにしても今は真剣に悩んでいる。
「赤屍さん」
 思わず、銀次は笑った。やはり、大きな仕事のあとはいい。赤屍はただの、わけのわからない人だ。
「……?」
 気を取られていることがなくなったせい、だろうか。ふと、赤屍が視線を彷徨わせた。
「おや?」
 何かを探すように見ている。鼻に指先を持っていった。
「銀次クン……?」
「……あ、」
 答えようとして、気力が切れた。ふらりと倒れ込もうとしたところを、赤屍に支えられる。彼はなんだか不思議そうに、ひどく無邪気に銀次を見てきていた。
「あなたですか。この……血の匂いは」
 さすが赤屍さん、とか言いたくなった。できたのは笑うことくらいだ。唇を釣り上げただけで、到底そう見えたかはわからないが。
 くらくらして、動けない。喧噪が雑音に変わり始めていた。ざあざあと耳元で煩い。
「だって」
 こんな仕事の後なんて時、そうそうあるものじゃない。どうしたって逃したくなかったのだ。
 どうしてそんなに拘ったのか。自分でもわからない。くらくらする。思考が混雑して、銀次は空っぽな箱を思った。
「おかしな人です」
 赤屍が呟く。もう理解できなかった。
「大丈夫、お休みなさい。私は」
 意識が遠くなって、なんだか冷たい。唇だけが妙に暖かいままだった。これは、これは確かにしつこいかもしれない。
「天野銀次は、殺しません」
 落ちる寸前に、わずかに意識がクリアになる。聞き取れた台詞の意味を考えるより、銀次は笑っていた。
「ありがと」
 赤屍がどんな顔をしたのか、見られなかった。



 力の抜けきった身体を抱きしめ、やれやれ、と赤屍は思った。
「ありがとう、はないでしょう」
 もちろん、そんなつもりの言葉ではない。いくらか不本意だ。しかも言った人間は、すぐに意識をなくしている。ちょっとした馬鹿だと思えば、やはりただの卑怯者かもしれない。
「まあ、規格外であることは確かかもしれませんね」
 殺す気にならない。それはもしかすると、殺さなくてもおもしろいから、かもしれない。少なくとも、こんな人間はそうそういないのではないかと思う。
 まだもう少し、楽しんでもいい。
(これも好意、ねえ?)
 誰かの告げた言葉を思い出す。そうなのかもしれない。考え方の問題だ。それにしても、そう思うのは何しろひっかかるものだ。何故だろう、ただの言葉だ。
(ああ、そうだ)
 あまりに自分らしくない。そんな言葉を考えるうちに、調子を崩してしまいそうなのだ。
 溜息をつきながら、赤屍は周りを見回した。注目が集まっている。軽く睨んでやると、さっさと視線を逸らした。
「すみませんが、部屋をお借りできますか。連れが調子を崩しましたので」
 ふと、銀次は銀次で、そうなのかもしれないと思う。調子を崩している。自分に逢うためだけに、一体何をしているのやら。