「珍しく帰ってこないと、思ったら」
 鏡は薄く笑み、眠り込んだ人影を見下ろした。連日構い倒したせいなのか、どうやら帰宅する前に眠ってしまったらしい。予測とは違ったことだが、鏡はおかしさを覚えた。
 さくさくひたすら殺すだけ。依頼など、延長する筈もない赤屍だ。てっきり楽しい相手と遊んでいるのかと思ったのだが。
「ま……良いもの、見れたし」
 いいか、と呟く。目を細めて眺める赤屍は血にまみれ、周囲には手足が散乱している。身体は細切れに刻んだくせ、手足だけは形を残している。どういう趣味なのだろう、と鏡はうきうきする。
 なかなかわからない。微妙な、誰も想像もしないような、赤屍のかわいらしい拘り。それを観察し、理解することが、今の鏡の一番の楽しみだった。
「ジャッカル」
 血の海の中に屈み込む。裾が汚れないかと心配した。けれど指を伸ばし、赤屍の頬に触れれば、そんな気遣いも意味がない。
 べっとり、爪の間にまで血が入り込む。それはどこの誰ともわからない、下らなく思う相手の血液だったが、鏡は不快にはならなかった。今はただ、赤屍を彩るものとしてだけ存在している。
「風邪をひくよ」
 言ったのは冗談でもなかった。こんな海の中では、水に浸かっているのと大差ない。暖かかった血液は、だんだんと冷え固まっている。飾り付けのロウソクのように、赤屍もそのまま固まってしまいそうだった。
 それにしても、真っ赤になりきった姿は壮絶なものだ。刺激をあたえるだけで、問答無用に切り捨てられそうだ。わずかに頬にあてた指を動かす。それだけで緊張するのも、鏡には楽しいことだ。
 どきどきする。
 偽物みたいな心臓が、さすがにあったのだなあ、と感じるような。
「ひいても。…構わないんだろうけどさ」
 瞼から落ちかかりそうな血雫を、唇を寄せて舐め取った。ごわついた睫が揺れる。目を覚ますかと思えば、きっちりと瞼は閉じられたままだった。血のりで貼り付けられている。
(いや)
 今にも産まれ落ちそうだ、と鏡は思った。世界への最初のまばたきを。傍には開かれた身体が落ちている。いくつもの死体の腹を切り裂いて、産まれてきたようだった。
 気が疼くのは、きっとそこなのだろう。
 赤屍を見ていると思う。何かが産まれそうで、死んでしまいそうで。空白の受精卵が透けて見える。まだ、増殖もしない細胞。生きていない。それは。
 これから生きるということなのか、いつか生きていたということなのか。
「どちらでもいいか」
 目を細める。この先がどうなるかなんて、知らない。知らないからいい。うずうずと何かが変わり、産まれ、始まる。それを象徴するみたいな姿に、ひどく喜びを覚えるだけなのだ。
 鏡はまた、自分がきっとそうであるだろうことを知っている。生きていない、死んでもいない。
 だが赤屍の如く、ありえることはないだろう。
 羨ましいのかもしれない、と思った。同時に、優越かも知れない。なんだっていいと鏡は思う。観察する。とてもいい。赤い血海の中に浸って存在する、そんな様子が。
「ジャッカル。ねえ」
 呼びかけても目を覚まさない。まだ、呼吸もしていない。喉が詰まっているのだ。きっと食い破った腹の肉で。
「そろそろ、起きないと」
 どうなるのか。わかりもしないままで声をかける。俯いた顎に手を伸ばし、顔をあげさせた。唇が半開きだ。何かを求めているような唇に、躊躇わず唇を重ねる。
 血の味がする。どこもかしこも。鼻から入り込んだ血臭だけで、おそらく充分だったのだろう。
「……ン」
 いつにない穏やかさで、赤屍は口付けを受け入れた。瞼も揺れない。片手で頬に触れてやると、やはり、ぬるりとした感触があった。触れ合う布地さえ、乾いた部分を残していない。
 本当に、産まれて落ちてきたようだった。きっちりと着込んだコートもまた、包み込む卵膜なのだ。
 くすぐったい擦れを過ぎ、喉元にまで舌を押し込んだ。ふっと赤屍が息を吸う。鏡はわずかに屈むようにして、赤屍を上目に見た。まだ目を覚まさない。喉元から流れ込んできた塊を、こくりと飲み込んだ。
 血の、味がする。
 せき止められた喉を解放されて、赤屍は泣き声をあげるだろうか。それは有り得ないような気がして、鏡はわずかに笑む。瞼の震え。ゆっくりした呼吸が始まっていた。